青函航路
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青函航路(せいかんこうろ)は、本州と北海道を結ぶ船舶による定期航路のうち青森駅と函館駅、もしくは青森港と函館港の間に設けられた航路の名称である。
概要
本州と北海道を結ぶ主要航路のひとつである。陸奥湾を津軽半島に沿って北上し、平舘海峡を抜け津軽海峡を横断する。函館湾に入り東に進路を取り函館港に至る約113 km。 青森港が陸奥湾の奥にある分、函館港との距離が遠く、江戸時代末期まであまり利用されることはなかった。1846年(弘化4年)にアメリカ合衆国の軍艦が出没するようになり、江戸幕府が奥羽六藩に警備を命じ、往来が増えてからこの航路が主要航路となった。この時期以前は下北半島の佐井村を発着する航路が主要航路で、1803年(享和3年)、江戸幕府はこの佐井 - 函館(箱館)航路を津軽海峡のメインルートと定めている[1]。
津軽海峡内は西から東へ流れる津軽暖流が存在する難所である。青森側より竜飛、中の汐、白神の3つの潮流に分かれており、航路はこれらを横断する[2]。
公営やそれを引き継ぐ団体が運営する航路
開拓使
1873年(明治6年)に開拓使が函館 - 青森、函館 - 安渡(現青森県むつ市大湊)間に汽船弘明丸を就航させ、それぞれ月3往復を運航した[3]。
鉄道連絡航路
青函連絡船と通称された、青森駅と函館駅などを結ぶ鉄道連絡航路である。路線名称は「青函航路」。1908年(明治41年)より1988年(昭和63年)まで運航された。
民間船舶会社が運航する航路
1861年(文久元年)に青森の滝屋喜蔵が箱館奉行所(再置後の箱館奉行、正式名は箱館御役所)への荷物輸送目的で、箱館定飛脚問屋取次所を開設し、5日1回の頻度で帆船による定期運航をしたことが始まりである[4]。
1873年(明治6年)2月には長州出身の小田藤吉が函館 - 青森間にブラキストンから購入した汽船マギー・ローダー号を青開丸と改称して1ヵ月4往復の頻度で就航させた[5]。
1879年(明治12年)6月30日に郵便汽船三菱会社(のちの日本郵船)が開拓使の代わりに浪花丸をほぼ隔日で就航させ、開拓使は付属船による青函航路を廃止した[6] が、青函連絡船の就航により運賃、速度、客室設備で劣る日本郵船は、1910年(明治43年)に青函航路から撤退した[7] 。
第二次世界大戦後は1964年(昭和39年)頃に青森の財界が「青道フェリー」を設立して就航しようとしたものの、免許取得ができず、大間函館航路を運航していた道南海運との合弁で東日本フェリー(初代)を設立し、1967年(昭和42年)に就航。
2022年(令和4年)現在は、津軽海峡フェリーと青函フェリーの2社によりフェリー航路が運航されている。
競合航路
明治以降に本州と北海道を結んだ主要航路には、青函航路の他に、青森と室蘭を結ぶ青蘭航路がある。1891年(明治24年)9月に本州側は青森まで日本鉄道(後の東北本線)が延伸、北海道側は翌1892年(明治25年)8月に北海道炭礦鉄道が岩見沢 - 室蘭(後の室蘭本線の大半)を延伸した。これにより鉄道のない函館より室蘭の重要性が増した。1893年(明治26年)2月には日本郵船によって青函航路を延長する形で青森 - 函館 - 室蘭間が就航[8]、1906年(明治39年)に青森 - 室蘭間に変更して青蘭航路が成立した。
歴史
国鉄による青函航路の歴史については青函連絡船を参照。
- 1861年 青森の滝屋喜蔵が5日1回の帆船による定期航路を開設。
- 1873年(明治6年)
- 1879年(明治12年)6月30日 郵便汽船三菱会社が青函航路を引き継ぐ
- 1882年(明治15年)共同運輸参入
- 1885年(明治18年)郵便汽船三菱会社と共同運輸の合併により、日本郵船の運航となる
- 1893年(明治26年)2月 日本郵船、青函航路を延長する形で青森-函館-室蘭間就航(青蘭航路の開設)
- 1898年(明治31年)日本郵船、青森側の船入場を浜町から青森駅構内に移転
- 1903年(明治36年)日本郵船の客船東海丸、ロシア船との衝突により沈没。久田佐助船長殉死
- 1908年(明治41年)3月7日 帝国鉄道庁(後の国鉄)が鉄道連絡船(青函連絡船)の運航を開始
- 1910年(明治43年)日本郵船、青函航路から撤退
- 太平洋戦争終戦
- 1967年(昭和42年)道南海運が函館港-青森港間にフェリー航路を増設
- 1968年(昭和43年)東日本フェリーが道南海運の函館港-青森港航路を譲受
- 1972年(昭和47年)東日本フェリー傘下の道南自動車フェリーが函館港-青森港間に貨物フェリー航路を開設
- 1973年(昭和48年)共栄運輸・笹井海運作業(後の北日本海運)が共同の「青函フェリー」ブランドで貨物フェリー航路を開設。
- 1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化によりJR北海道が青函連絡船を引き継ぐ
- 1988年(昭和63年)3月13日 青函トンネル開通。JR北海道、青函航路の定期運行を終了(正式廃止は同年9月19日)
- 青函トンネル開業後
- 1990年(平成2年)青函航路初の高速船として東日本フェリーがジェットフォイル「ゆにこん」を導入、1996年まで運航
- 1997年6月 東日本フェリー、単胴型高速フェリー「ゆにこん」就航(2000年引退)
- 2000年(平成12年)共栄運輸・北日本海運、道南自動車フェリー、一般旅客定期航路事業を開始
- 2007年(平成19年)9月1日 東日本フェリー、ウェーブピアサー型高速船「ナッチャンRera」就航
- 2008年(平成20年)
- 5月 東日本フェリー、ウェーブピアサー型高速船「ナッチャンWorld」就航
- 11月1日 東日本フェリーがウェーブピアサー型高速船の定期運航を終了。その後2009年からは「ナッチャンWorld」のみを用い夏季のみの臨時運航を実施。
- 11月30日 東日本フェリーが青函航路から撤退し、翌日から傘下の道南自動車フェリーが在来船を継承し運航
- 2009年(平成21年)11月1日 道南自動車フェリーが東日本フェリーなどグループ会社2社を吸収合併し、社名を津軽海峡フェリーに変更
- 2012年(平成24年)8月19日 津軽海峡フェリーがこの年を最後にナッチャンWorldの夏季臨時運航を終了。
- 2022年(令和4年)4月1日 共栄運輸・北日本海運が合併、「青函フェリー株式会社」に一本化。
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就航船
- 開拓使
- 小田藤吉
- 青開丸
- 三菱
- 浪花丸
桟橋
- 函館港
出典
参考文献
- 自治体史
- 函館市史 通説編2 函館市史編さん室編 函館市 1990年
- 商業誌
- 青函文化史 須藤隆仙 東洋書院 1992年
- 函館·道南鉄道ものがたり 原田伸一 北海道新聞社 2016年
- 海峡の鉄路 青函連絡船 原田伸一 北海道新聞社 2018年
関連項目
青函航路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:11 UTC 版)
終戦後もしばらく放置されていたが、青函連絡船の不足を補うため1946年に引き揚げられ、1947年8月に修理が完了。同年9月23日より青函航路に就航する。1947年より洞爺丸型が順次就航すると、1948年10月10日に終航する。 1952年1月から4月まではアメリカ軍に徴用され、朝鮮戦争の人員・物資の運搬に従事する。 1954年9月26日、洞爺丸台風により洞爺丸などが沈没(洞爺丸事故)すると、船員の訓練の必要があがり、昌慶丸は1955年12月18日に訓練船となり、函館港有川岸壁に繋留される。1957年10月まで訓練船として使われ、1961年に売却、解体された。 表 話 編 歴 関釜連絡船(博釜連絡船)の船舶国鉄客船 壱岐丸I型壱岐丸I・対馬丸I 高麗丸型高麗丸・新羅丸 景福丸型景福丸・徳寿丸・昌慶丸 金剛丸型金剛丸・興安丸 天山丸型天山丸・崑崙丸 国鉄貨物船 壱岐丸II型壱岐丸II・対馬丸II 航路転入多喜丸 傭船さくら丸・うめが香丸・博愛丸・弘済丸・西京丸 表 話 編 歴 青函連絡船の船舶比羅夫丸型比羅夫丸・田村丸 初期車両渡船車運丸・桜島丸 快運丸型第一・第二快運丸 白神丸型白神丸・竜飛丸 翔鳳丸型翔鳳丸・飛鸞丸・津軽丸I・松前丸I 青函丸(戦前型)第一青函丸・第二青函丸・第三・第四青函丸 W型戦時標準船第五・第六・第七・第八・第九・第十・第十一・第十二青函丸 石狩丸型石狩丸I・十勝丸I・渡島丸I 北見丸型北見丸・日高丸I 洞爺丸型洞爺丸・大雪丸I・摩周丸I・羊蹄丸I 檜山丸型檜山丸I・空知丸I 初代十和田丸十和田丸I→石狩丸II 津軽丸型■津軽丸II・■八甲田丸・■松前丸II・■大雪丸II・■摩周丸II・■羊蹄丸II・■十和田丸II 渡島丸型渡島丸II・日高丸II・十勝丸II・空知丸II・檜山丸II・石狩丸III 他航路から転属壱岐丸I・新羅丸・亜庭丸・景福丸・壱岐丸II・宗谷丸・昌慶丸・徳寿丸 補助汽船(航路廃止時)ひうら丸・ふくうら丸・しらかみ丸・たっぴ丸・かつとし丸 カテゴリ
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