新羅丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/11 15:43 UTC 版)
| 新羅丸 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 船種 | 貨客船 |
| クラス | 高麗丸型貨客船 |
| 船籍 | |
| 所有者 | 鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 |
| 運用者 | 運輸通信省 運輸省鉄道総局 |
| 建造所 | 川崎造船所 |
| 母港 | 東京港/東京都 |
| 姉妹船 | 高麗丸 |
| 信号符字 | MFTV→JSKD[1] |
| IMO番号 | 15997(※船舶番号) |
| 経歴 | |
| 起工 | 1912年8月[1] |
| 進水 | 1912年11月27日[1] |
| 竣工 | 1913年3月14日[1] |
| 就航 | 1913年4月 |
| 最後 | 1945年5月25日触雷沈没 |
| 要目 | |
| 総トン数 | 3,107トン |
| 全長 | 97.5m |
| 幅 | 13.1m |
| 深さ | 9.1m[1] |
| 高さ | 21.64m(水面からマスト最上端まで) 16.15m(水面から煙突最上端まで) |
| ボイラー | 石炭専燃缶 |
| 主機関 | 三連成レシプロ機関 2基[1] |
| 推進器 | 2軸 |
| 出力 | 4,676HP |
| 最大速力 | 16.04ノット[1] |
| 航海速力 | 12.5ノット |
| 航続距離 | 12.5ノットで2,500海里 |
| 旅客定員 | 一等:43名 二等:120名 三等:440名[1] |
| 高さは米海軍識別表[2]より(フィート表記)。 | |
新羅丸(しらぎまる Shiragi maru)は鉄道省の関釜航路・青函航路の鉄道連絡船。高麗丸型の第2船である。姉妹船には高麗丸がある。
航跡
就航
関釜連絡船には、開設以来、壱岐丸と対馬丸が就航していたが、1912年に新橋 - 下関の1・2等特別急行列車、及び釜山 - 奉天の直通列車が運行開始すると、新橋から関釜航路経由で奉天へ向かうルートが完成し、利用者増加に伴う関釜航路の大型船が必要となった。
2隻の新造船(高麗型)は1912年に川崎造船所で建造が開始され、第1船の高麗丸が1913年1月、第2船の新羅丸は1913年3月に就航する。
機関が故障しても帆走できるようにマストが設置されていた。内装では壱岐丸と対馬丸で不評であった多段ベッドを廃止し、客室を畳敷きの広間にするなど、改良が行われている。
連絡船
新羅丸は1913年4月から関釜航路で運行され、1925年には無線電話が設置される。1932年3月から7月までは第一次上海事変のとき陸軍の病院船として宇品 - 上海間で使用される。
1937年に貨物専用船に改造され、1941年7月には青函航路の輸送力増強の臨時航路(本輪 - 塩釜)で就航し、1942年6月10日に正式に青函航路に転属となる。1944年3月から4月には海軍に貸与されている。それ以降は青函航路以外にも新潟 - 大泊や大湊 - 択捉島の臨時航路でも使用される。
1945年5月25日、修理を終え下関に向かう途中、関門海峡・部埼灯台沖で触雷により沈没する。
船長
- 松原善之助 鉄道院技師:1913年3月14日 -
脚注
参考文献
- 『官報』
外部リンク
- 「鉄道院関釜連絡船高麗丸及新羅丸客室配置図」『鉄道旅行案内』1914年(国立国会図書館デジタルコレクション)
固有名詞の分類
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