新羅丸、傭船、機帆船による輸送力不足補完
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:06 UTC 版)
「第五青函丸」の記事における「新羅丸、傭船、機帆船による輸送力不足補完」の解説
青函航路では1942年(昭和17年)2月15日から、陸運転移による貨物増加と浮流機雷流入による貨車航送能力不足補完のため、機帆船を用いた鉄道貨物一貫輸送を始めたことは既に述べたが、新羅丸が2月28日助勤を終了し下関へ戻った後、5月10日より7月31日まで北日本汽船の温州丸(697トン)を傭船し、5月20日から7月31日まで、新羅丸を再度青函航路で運航させ、その途中の6月10日付で青函航路へ転属させた。その後の新羅丸は、8月中は関釜航路で助勤し、9月には神戸 - 釜山間で運航した後、青函航路へ戻った。11月4日から翌1943年(昭和18年)1月7日まで、この時期は北海道産農産物の本州向け輸送が増える秋冬繁忙期であるが、浦河丸、第五日高丸、幸丸の小型貨物船も傭船して増加した貨物輸送をさばいた。 なお、新羅丸は1943年(昭和18年)には3月から4月に関釜航路助勤、1944年(昭和19年)は3月から4月にかけ大湊 - 択捉島単冠湾間の兵員輸送、6月から9月には大泊 - 新潟間の自動車燃料輸送を行い、さらに1945年(昭和20年)1月には函館 - 新潟間で運航され、4月には関釜航路助勤のまま4月20日付で関釜航路に転属し、尾道での入渠後5月25日関門海峡東口で機雷に触れ沈没してしまった。 青函間の機帆船による輸送実績は石炭輸送開始前の1942年(昭和17年)度は4万998トンで、翌1943年(昭和18年)度から機帆船による石炭輸送が開始され、石炭輸送実績31万1477トン、石炭以外の輸送実績は14万8907トンであった。この年度は直前の3月から第四青函丸の就航により石炭列車航送が開始され、年明け1月からW1(第五青函丸)も就航し、同年度の石炭航送実績は61万2711トン(青函間上り貨物輸送実績は201万1079トン)であった。機帆船は車両渡船半隻分以上の石炭輸送を行い、車両渡船建造遅れを補っていたことになる。
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