新羅への派遣(推古5年)
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「吉士磐金」の記事における「新羅への派遣(推古5年)」の解説
『日本書紀』巻第二十二によると、推古天皇5年(598年)11月に新羅に派遣されたとあるのが名前の初出である。この2年前、595年に、 将軍(いくさのきみ)等(たち)、筑紫(つくし)より至(まういた)る。 とあり、これは巻第二十一にある591年(崇峻天皇4年11月)の紀男麻呂・大伴咋・葛城烏那羅らを大将軍として、任那復興のために筑紫に派遣していた2万の軍を呼び戻したことを示している。 翌599年4月、新羅より帰国して、鵲(かささぎ)2羽を献上した。つがいは「難波社」(なにわのもり)で飼育され、木の枝に巣をつくって、子を産んだという。これと関係があるのかどうかは不明だが、同年8月に新羅は孔雀1羽を貢上した。さらに、その次の年の9月には、百済は駱駝(らくだ)1匹、驢(うさぎうま=ロバ)を1頭、羊2頭、白い雉(きぎす=キジ)を1羽貢上した。これらの動物は、589年に中国を統一した隋によってもたらされたものであろうと、直木孝次郎は述べている。『三国史記』によると、百済は隋建国の581年から使者をおくっており、新羅も594年に隋から「上開府楽浪郡公新羅王」(じょうかいふ らくろうぐんこう しらぎおう)に叙せられている。 推古天皇8年(601年)、新羅と任那が戦争をし、大和政権からの援軍が送られ、新羅が任那の調(みつぎ)を献上する、という形で決着がついた。
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新羅への派遣(推古31年)
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「吉士磐金」の記事における「新羅への派遣(推古31年)」の解説
その20年ほどのちのことである。 推古天皇31年(623年)7月、新羅が任那を攻撃し、服属させた。大和政権は半島へ派兵しようとしたが、慎重論が勝利し、磐金は、一族の吉士倉下(きし の くらじ)と共に問責使として新羅・任那両国へ派遣された。磐金が新羅担当で、倉下が任那担当であった。 この時に磐金らが新羅に渡る際に、出迎えの船に任那側の船がないことを尋ねたため、新羅側は任那用の船を追加した、という。 時の新羅王は、真平王であったが、8人の大夫を派遣して、新羅国内のことを磐金に伝えた。そして約束していうには、 「任那は小(いささけ)き国なれども、天皇(すめらみこと)の附庸(ほどかすのくに=包まれて付き従っている国)なり。何(なに)ぞ新羅(しらきのくに)輙(たやす)く有(え)むや。常(つね)の随(まま)に内官家(うちつみやけ)と定(さだ)め、願(ねが)はくは煩(わづら)ふこと無けむ」(「任那は小さい国でありますが、天皇につき従い仕える国であります。どうして新羅の国が気ままに奪ったりできましょうか。今まで通りの天皇の内官家と定め、心配なさいませんように」)訳:宇治谷孟 新羅は奈末智洗遅(なまちせんじ)を磐金に、任那人達奈良末遅(だちそちなまじ)を倉下につけてよこした。そして、磐金は倉下と合流し、新羅・任那両国の調を受け取った。しかし、磐金らがまだ帰国する前に大和政権は、境部雄摩侶・中臣国子の両名を大将軍とする征新羅軍が派遣されてしまった。この時、磐金らは風を待って出向しようと港に集まっていたが、両国の使いはこの様子を望見し、愕然とした。そこで代役を立てて、任那の調の使いとして、逃げかえってしまった。 磐金は、「軍を起こすことは先の約束とは違う。これでは任那のことはまたうまく行くまい」と倉下と語り合ったという。 2人はその年の11月に帰国し、この時の有様を大臣の蘇我馬子に詳しく報告した。その時馬子は、 「悔(くや)しきかな。早(はや)く師(いくさ)を遣(つかは)しつること」 と言ったと伝えられる。 この軍事行動は大和政権内部の対立を露わにしたものであり、これによりしばらく続いた新羅との善隣外交も崩れ去った。
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