新羅の「蕃」視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:15 UTC 版)
田村圓澄は神話の造作時期を天武 - 持統期とし、当時の新羅は倭国への従属から抜け出し新羅王と倭王が対等であったが、日本は律令国家を構築する中で倭を日本に、倭王を天皇に変更し、対する新羅王、新羅を「蕃」と規定、その一環として三韓征伐が造作されたと主張する。 鈴木英夫は『日本書紀』編纂時の新羅「蕃国」視によって、「在安羅諸倭臣」は百済王の統制に服し、倭王権の派遣軍は百済の「傭兵」的性格を帯びていたと主張し、その事実が誇張・拡大されて「任那日本府」の存在や倭王権の「官家」たる百済・「任那」の従属を核とする内容の中国王朝の史書『宋書、梁書』にある記述が成立したと主張する。 なお、この他国を「蕃国」視する意識の成立に関しては、堀敏一は『日本書紀』が朝鮮諸国の「朝貢」を記しているが、中華意識では到来するものすべてを朝貢と認識すると指摘する。山内弘一はこのような天下的世界認識は中華文明を同様に受容した新羅にも存在したことを指摘している。
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