新羅の強大化と外交関係とは? わかりやすく解説

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新羅の強大化と外交関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 12:35 UTC 版)

百済」の記事における「新羅の強大化と外交関係」の解説

伽耶巡って新羅との利害関係不一致顕在化する一方北側では550年頃、国境地帯の城の奪い合い切っ掛け高句麗全面的な衝突入り百済の情勢極めて悪化した。この時期倭国向けて兵糧武具軍兵支援求め使者矢継ぎ早に派遣されたことが『日本書紀』見える。551年には一時的にかつての都、漢城高句麗から奪回することに成功した。しかし翌552年理由不明ながら百済漢城放棄追い込まれた。変わって新羅漁夫の利を得る形で漢城占領した。このことは百済新羅の関係を大きく悪化させたと推定される新羅対抗するため、聖王倭国からの支援強固にすべく諸博士仏像経典などを送る一方で見返りとしてより一層軍事支援求めた。大伽耶倭国からの援軍得た聖王554年新羅の函山(管山)城を攻撃したが、伏兵にあって戦死した十五年,秋七月,修築明活城,百濟王明禯加良,來攻管山城,軍主角干于德伊耽知等,逆戰失利,新州軍主金武力,以州兵赴之,及交戰,裨將三年山郡高干都刀,急撃百濟王,於是,諸軍乘勝,大克之,斬佐平四人士卒九千六百人,匹馬無反者(真興王十五年(554年)秋七月、明活城を修繕した。(この月)百済王明禯(聖王)は加羅連合して山城攻撃してきた。軍主の角干の于徳や伊飡の耽知らがこれを迎え撃ったが、戦い敗れた。(そこで)新州軍主の金武力が州兵率いて救援向かった戦闘がはじまると、副将三年山郡の高干の都刀が奇襲攻撃百済王殺したかくして諸軍勝ちに乗じて大いに(この連合軍を)討ち負かし佐平四人、士率二九千六百人を切り殺し一匹の馬も帰るものがなかった。-『三国史記』新羅本紀/真興王15年/秋7月 井上秀雄訳。 百済では新たに威徳王即位したが、国王戦死失態百済大きな打撃与え王権混乱招き562年までに伽耶地方大半新羅の手落ちることとなった威徳王王弟恵を倭国派遣し、親百済政策維持援軍出兵働きかけたが、倭国有力者蘇我稲目は親百済姿勢維持したものの国内重視し援軍派兵には同意しなかった。とは言え新羅強大化は百済のみならず倭国にとっても好ましいものとは映らなかったため、伽耶地方制圧巡り倭と新羅の関係は悪化し小競り合い発生していた。百済伽耶地方奪回目指したため倭国との伝統的な関係は維持された。しかし、新羅が「任那の調(みまなのみつき)」を倭国送付するうになると、倭国当面これに満足し百済577年新羅侵攻した際には軍事援助得られなかった。威徳王結局伽耶奪回を果たすことはできず、579年最後に新羅への積極策を改め以後武力行動慎重になった。

※この「新羅の強大化と外交関係」の解説は、「百済」の解説の一部です。
「新羅の強大化と外交関係」を含む「百済」の記事については、「百済」の概要を参照ください。

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