新羅の強大化と外交関係
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伽耶を巡って新羅との利害関係の不一致が顕在化する一方、北側では550年頃、国境地帯の城の奪い合いを切っ掛けに高句麗と全面的な衝突に入り、百済の情勢は極めて悪化した。この時期に倭国に向けて兵糧、武具、軍兵の支援を求める使者が矢継ぎ早に派遣されたことが『日本書紀』に見える。551年には一時的にかつての都、漢城を高句麗から奪回することに成功した。しかし翌552年、理由不明ながら百済は漢城の放棄に追い込まれた。変わって新羅が漁夫の利を得る形で漢城を占領した。このことは百済と新羅の関係を大きく悪化させたと推定される。新羅に対抗するため、聖王は倭国からの支援を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送る一方で、見返りとしてより一層の軍事支援を求めた。大伽耶、倭国からの援軍を得た聖王は554年に新羅の函山(管山)城を攻撃したが、伏兵にあって戦死した。 十五年,秋七月,修築明活城,百濟王明禯加良,來攻管山城,軍主角干于德伊耽知等,逆戰失利,新州軍主金武力,以州兵赴之,及交戰,裨將三年山郡高干都刀,急撃殺百濟王,於是,諸軍乘勝,大克之,斬佐平四人士卒二萬九千六百人,匹馬無反者(真興王)十五年(554年)秋七月、明活城を修繕した。(この月)百済王明禯(聖王)は加羅と連合して管山城を攻撃してきた。軍主の角干の于徳や伊飡の耽知らがこれを迎え撃ったが、戦いに敗れた。(そこで)新州軍主の金武力が州兵を率いて救援に向かった。戦闘がはじまると、副将の三年山郡の高干の都刀が奇襲攻撃で百済王を殺した。かくして諸軍が勝ちに乗じて、大いに(この連合軍を)討ち負かし、佐平四人、士率二万九千六百人を切り殺し、一匹の馬も帰るものがなかった。-『三国史記』新羅本紀/真興王15年/秋7月 井上秀雄訳。 百済では新たに威徳王が即位したが、国王戦死の失態は百済に大きな打撃を与え、王権の混乱を招き、562年までに伽耶地方の大半が新羅の手に落ちることとなった。威徳王は王弟恵を倭国に派遣し、親百済政策の維持と援軍の出兵を働きかけたが、倭国の有力者蘇我稲目は親百済姿勢は維持したものの国内を重視し、援軍の派兵には同意しなかった。とは言え、新羅の強大化は百済のみならず、倭国にとっても好ましいものとは映らなかったため、伽耶地方の制圧を巡り倭と新羅の関係は悪化し、小競り合いが発生していた。百済も伽耶地方の奪回を目指したため倭国との伝統的な関係は維持された。しかし、新羅が「任那の調(みまなのみつき)」を倭国に送付するようになると、倭国は当面これに満足し、百済が577年に新羅に侵攻した際には軍事援助は得られなかった。威徳王は結局伽耶の奪回を果たすことはできず、579年を最後に新羅への積極策を改め、以後武力行動に慎重になった。
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