景福丸・徳寿丸・昌慶丸就航と壱岐丸・対馬丸転出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:09 UTC 版)
「対馬丸 (連絡船・初代)」の記事における「景福丸・徳寿丸・昌慶丸就航と壱岐丸・対馬丸転出」の解説
第一次世界大戦中の船腹不足による傭船難と傭船料高騰に悩まされた鉄道院/鉄道省 は、傭船頼み脱却を目指し、何れも3,619総トンの景福丸型3隻を三菱造船神戸造船所で建造し、1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて就航させた。 これら3隻は最大速力20ノット前後と高速で、下関 - 釜山間を昼航8時間、夜航9時間で航行でき、旅客専用船とすることで貨物荷役を省略して停泊時間を短縮し、関釜間を1日1往復できたため、これら3隻で、年間を通じて昼夜1往復ずつ計2往復の運航が可能となった。このため、高麗丸、新羅丸の2隻は多客時以外は定期貨物便運用となった。 これにより、1922年 (大正11年)3月29日には関釜航路唯一の傭船博愛丸が解傭され、同年10月18日には壱岐丸が未だ傭船頼みの青函航路へ転属、対馬丸も1923年(大正12年)3月10日付けで、新設予定の稚泊航路就航のため札幌鉄道局へ転属した。
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