再臨運動とは? わかりやすく解説

再臨運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/26 18:58 UTC 版)

再臨運動の中心人物中田重治、内村鑑三、木村清松(1918年頃)

再臨運動(さいりんうんどう)は、大正時代の日本で、1917年から一年半にわたって続いた、福音派を中心にしたプロテスタント超教派の運動である。

背景

内村鑑三

再臨運動時代の内村鑑三

無教会派の内村鑑三は、1912年(明治45年)1月に娘ルツ子死去したことをきっかけに、1918年(大正7年)頃から再臨を確信するようになった。

中田重治

中田重治の設立した日本ホーリネス教会も、当初から四重の福音を一つの柱として再臨を強調していた。1917年(大正6年)末、中田はアメリカのディスペンセーション主義クリスチャン・シオニストの指導者ウィリアム・ユージン・ブラックストンの著書『耶蘇は来る』を翻訳出版した。1918年(大正7年)に、中田は日本ホーリネス教会の新年聖会において再臨問題について連続講演をして、その重要性を強調した。

協力者

中田と内村は同じ柏木に住んでいたがそれまで交流はなかった。しかし、柏木であった火事をきっかけに知り合った。内村と中田は互いに再臨信仰への使命も持っていることを知ると、急速に接近して協力するようになった。

さらに、組合教会の巡回伝道者の木村清松武本喜代蔵、アメリカ留学から帰国したばかりの平出慶一が加わり、超教派の運動として、再臨運動が始まった。

運動

会場になった東京キリスト教青年会会館

1918年1月6日、内村鑑三、木村清松、中田重治は神田YMCA講堂で「聖書の予言的研究講演会」を開催した。内村鑑三は「聖書研究者の立場より見たる基督の再来」と題して、どのようにして自分が再臨を信じるようになったを語った。この講演会は2月10日、3月3日と続けられ、1200名余の聴衆が参加した。

3月10日には大阪と京都で講演会が行われ、三月末には再び神田YMCAで1500名余の聴衆が参加して「復活と再臨」という題で講演が行われた。4月には第一日曜日より、五月第二日曜まで六週間、毎週日曜日神田バプテスト中央会館で、バプテスト派柏木聖書学院などの各派合同で再臨問題研究講演会を開いた。日本ホーリネス教会の車田秋次中田重治、無教会派の坂田祐などが講演を行った。

6月になると、三崎町のバプテスト中央会館でバプテスト宣教師ウィリアム・アキスリングと講演会を開いた。

反対運動

これらの、運動に対して、海老名弾正今井三郎杉浦貞二郎三並良富永徳磨らは「神学論評」「基督教世界」などの雑誌により反対論を掲げた。

運動の終結

大日本私立衛生会の講堂

1918年(大正7年)10月11日から三日間岡県会議事堂で再臨講演会が開かれた。その後、11月8日から三日間神田YMCAで基督蔡倫研究東京大会を、宣教師数名とともに各派合同で開催した。

1919年(大正8年)1月17日から三日間内村鑑三は大阪中之島公会堂の再臨研究関西大会に出席した。1月19日には2300人の聴衆を前に「伝道と基督の再臨」と題して、最後の再臨講演を行った。以降内村鑑三は熱狂的な運動から身を引いた。しかし、終生再臨信仰を保ち、YMCAでの聖書講演会では再臨問題を度々述べた。

一方、日本ホーリネス教会では、この運動がきっかけになり、淀橋教会ホーリネス・リバイバルが起きることになった。

この時期にキリストの再臨運動が強調されたのは、第一次世界大戦を通して、西欧文明の破綻が明らかになり、科学の進歩や合理主義について深刻な反省が生まれてきたことである。

この運動をきっかけに、各地の教会に熱烈な信仰復興が起こり、キリスト教界に大きな影響を与えた。

参考文献

  • 中村敏『日本における福音派の歴史』いのちのことば社、2000年
  • 中村敏『プロテスタント宣教史』いのちのことば社、2009年
  • 米田勇『中田重治伝』中田重治伝刊行委員会、1959年

外部リンク


再臨運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 21:57 UTC 版)

中田重治」の記事における「再臨運動」の解説

詳細は「再臨運動」を参照 1918年になり、正月2日より、5日まで、神田教会新年聖会が開かれ中田再臨問題説教毎朝した。これが再臨運動の前哨戦になった柏木聖書学院に近い内村鑑三の家の付近起きた火災時に中田聖書学院の生徒動員して消化活動手伝わせた。内村中田にそのお礼言い来てから親しくなった。中田ホーリネス四重の福音一つとして再臨標榜していた。また内村も娘ルツ子の死を通して再臨信仰を持つようになっていた。神学違いはあるが同じく再臨説く両者は、急速に接近するようになった1918年1月6日神田基督教青年会館(YMCA)で開かれた第一回集会により、内村鑑三木村清松中田重治らの再臨運動は開始され一年半渡って全国展開されることになる。これは、当時日本のキリスト教界を巻き込んだ運動になる。 5月26日横浜青年会館で春の予言大会最後集会持った。「日出ずる国より昇る天使」という題で、再臨における日本国民使命について解いた続いて平出慶一内村鑑三講演をした。 横浜講演終えると、下関行き新羅丸乗り28日釜山行って3日伝道集会持ったその後京城行き東洋宣教会聖書学院で講演をした。その後撫順行き6日間集会をした。翌日大連行き再臨問題語り合い日本基督教会説教して23日ハルピン丸に乗り27日帰京する中田朝鮮半島満州旅行している間に、本郷教会では主催者海老名弾正らによって再臨運動の反対運動起きたメソジスト今井三郎聖公会杉浦貞二郎らが弁士として反対論展開した反対運動にもかかわらず7月26日より31日まで、箱根修養会開催した中田と、内村鑑三秋山由五郎車田秋次平出慶一らが再臨講演行ったその後中田羽後と金井為一郎一緒に松島修養会講師をしに出かけた。帰途車中山室軍平一緒になり語り合った。そして、羽後をつれて大阪行き基督教同志交会再臨のための聖潔を説く団体講演をした。 1919年になっても再臨運動は続けられたが、6月になって中田たちが他教会攻撃したという理由で、青年会館から使用断られ

※この「再臨運動」の解説は、「中田重治」の解説の一部です。
「再臨運動」を含む「中田重治」の記事については、「中田重治」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「再臨運動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「再臨運動」の関連用語

再臨運動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



再臨運動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの再臨運動 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの中田重治 (改訂履歴)、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS