再興から築地軍艦操練所の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/04 01:10 UTC 版)
「攻玉塾」の記事における「再興から築地軍艦操練所の時代」の解説
近藤真琴は1869年(明治2年)に海軍の方から海軍操練所の教師になるように召出しをうけ、上京して、鳥羽藩邸で暮らすことになった。すると、すぐに旧門人が集い、さらに入塾を希望する者もあらわれた。近藤真琴は藩の許しを得て、ここに塾を再開した。 海軍操練所が新校舎に移ったとき、近藤真琴は兵部省より特別に塾の経営と寄宿に便利なように広く大きい長屋を貸与された。明治5年の私学明細表に、近藤真琴が「明治二年十一月ヨリ開業」と書いていたことからも、このころになって塾も体裁を備えたと言える。近藤真琴はこの塾を攻玉塾と命名した(塾名については後述)。 明治2年の暮れには、塾則、教則も整い、教授科目も数学、漢学、英学と広がっていった。
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