再興と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:15 UTC 版)
「ユスティニアヌス王朝」および「民族移動時代」も参照 本項では、ローマ帝国の東西両地域を実質的に単独支配した最後の皇帝となったテオドシウス1世が、395年の死に際し、長男アルカディウスに帝国の東半分を、次男ホノリウスに西半分を、分担させた時点をもって「東ローマ帝国」の始まりとしている。 皇帝テオドシウス2世(401年 - 450年)は、パンノニアに本拠地を置いたフン族の王アッティラにたびたび侵入されたため、首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁テオドシウスの城壁を築き、ゲルマン人やゴート人に対する防御力を高める事に専心した。皇帝マルキアヌス(450年 - 457年)は、451年にカルケドン公会議を開催し、第2エフェソス公会議以来の問題となっていたエウテュケス(英語版)の唱えるエウテュケス主義(英語版)や単性説を改めて異端として避け、三位一体を支持し、東西教会の分裂を避ける事に尽力した。453年にアッティラが急死するとフン族は急速に弱体化し、フン族への献金を打ち切った。マルキアヌスが急死すると、皇帝にはトラキア人のレオ1世(457年 - 474年)が据えられたが、アラン人のパトリキでマギステル・ミリトゥムだったアスパルの傀儡であった。しかし、471年にアスパル父子を殺害して実権を得ることに成功した。 西ローマ帝国での皇帝権はゲルマン人の侵入などで急速に弱体化し、476年に西方正帝の地位が消滅した。東ゲルマン族(英語版)のスキリア族のオドアケルは西ローマ皇帝を退位させ、自らは帝位を継承せずに東ローマ皇帝ゼノン(474年 - 491年)に帝位を返上した。東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を退けて古代後期時点でのローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝となった。オドアケルは東ローマ皇帝の宗主権を認めてローマ帝国のイタリア領主として任命され、皇帝の代官としてローマ帝国の本土であるイタリア半島を支配した。 西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は アナトリア・シリア・エジプトのような、ゲルマン人の手の届かない地域に豊かな穀倉地帯を保持していた。対する西ローマ帝国は穀倉地帯であるシチリアを、ゲルマン人に奪われた。 アナトリアのイサウリア人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族がいた。 西ゴート人や東ゴート人へ貢納金を払って西ローマ帝国へ移住させた。ただし、これによって西ローマ側の疲弊は進んだ。 首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁を築いていた。 ことなどが挙げられる。 しかし488年にイタリアの統治方針についてゼノンとイタリア領主オドアケルが対立したことがきっかけとなり、東ローマ皇帝ゼノンがオドアケル追討を命じた。489年に東ゴート族のテオドリックがイタリア侵攻を開始した。491年、皇帝ゼノンが急死し、皇后アリアドネはアナスタシウス1世(491年 - 518年)と結婚して皇帝に据え、混乱を防いだ。493年にオドアケルは暗殺され、テオドリックがイタリアの総督および道長官に任命された。テオドリックは497年にアナスタシウス1世よりイタリア王を名乗ることが許され、ここに東ゴート王国(497年-553年)が成立した。ただし東ゴート王国の領土と住民は依然としてローマ帝国のものとされ、民政は引き続き西ローマ帝国政府が運営し、立法権は東ローマ皇帝が行使した。 アナスタシウス1世の下で東ローマ帝国は力を蓄えたが、その一方で、単性論寄りの宗教政策によってカトリック教会と対立が再び表面化した。502年のアナスタシア戦争が長きに渡るサーサーン朝とのビザンチン・サーサーン戦争(英語版)の発端となった。アナスタシウス1世が急死すると、次のユスティヌス1世(518年 - 527年)はローマ教皇との関係修復に腐心することになった。 6世紀のユスティニアヌス1世(527年 - 565年)の時代には、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊した。一方、名将ベリサリウスの活躍により旧西ローマ帝国領のイタリア半島・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、533年のアド・デキムムの戦いでヴァンダル族を破ってカルタゴを奪還すると、ヴァンダル戦争(533年 - 534年)で地中海沿岸の大半を再統一することに成功した。特にこの時期、442年(455年)以来ヴァンダル族に占領されていた旧都・ローマを奪還した事は、東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。528年にトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建など、後世に残る文化事業も成したが、529年にはギリシアの多神教を弾圧し、プラトン以来続いていたアテネのアカデメイアを閉鎖に追い込み、数多くの学者がサーサーン朝に移住していった。 535年のインドネシアのクラカタウ大噴火の影響で535年から536年の異常気象現象(英語版)に見舞われた。イタリア半島においてはゴート戦争(535年 – 554年)が始まる。543年、黒死病(ユスティニアヌスのペスト(英語版))。ラジカ王国(英語版)をめぐるサーサーン朝ペルシアとの抗争(ラジカ戦争(英語版))で手がまわらなくなると、スラヴ人(542年)・アヴァール(557年)などの侵入に悩まされた。546年に東ゴート軍は、イサウリア人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、この時のローマ略奪と重税によって、いわゆる「ローマの元老院と市民」(SPQR)が崩壊し、古代ローマはこの時滅亡したのだと主張する学者もいる[誰?]。552年にナルセス将軍が派遣され、ブスタ・ガロールムの戦い(ギリシア語: Μάχη των Βουσταγαλλώρων、Battle of Busta Gallorum、タギナエの戦い/イタリア語: Battaglia di Tagina, 英語: Battle of Taginae)でトーティラを敗死させ、東ゴートは滅亡した。翌年、イタリア半島は平定された。 565年にユスティニアヌス1世が没すると、568年にはアルプス山脈を越えて南下したゲルマン系ランゴバルド人によってランゴバルド王国が北イタリアに建国された。558年、突厥の西面(現イリ)の室点蜜はサーサーン朝のホスロー1世との連合軍でエフタルを攻撃し、567年頃に室点蜜はエフタルを滅ぼした。その後、室点蜜とホスロー1世の関係が悪化し、568年に室点蜜からの使者が東ローマ帝国を訪れた。572年から始まったビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)(英語版)で、東ローマ帝国もサーサーン朝に対抗する同盟相手を求めていたため、576年に達頭可汗にサーサーン朝を挟撃することを提案した。588年、第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版)でサーサーン朝を挟撃した。598年、達頭可汗がエフタルとアヴァール征服を東ローマ帝国の皇帝マウリキウスに報告した。602年に政変が起こりマウリキウスが殺され、混乱の中でフォカスが帝位を僭称した。 7世紀になると、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った(サーサーン朝のエジプト征服(英語版))。フォカスは、逆襲のためにサーサーン朝ペルシアへ侵攻した(東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年))。
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