再臨運動時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:32 UTC 版)
詳細は「再臨運動」を参照 明治45年(1912年)の娘ルツ子の病死とアメリカ在住のアメリカ人の友人ベルの手紙での感化によって、内村の再臨信仰は形成された。大正6年(1917年)に宗教改革四百年記念講演会が成功に終わったことに励まされ、無教会の特徴である閉鎖的な集会の方針を変えて、大々的な集会を開催する方針になった。大正7年(1918年)より再臨運動を開始した。内村は再臨信仰において一致できるならば誰とでも協力したが、その一人が日本ホーリネス教会の監督中田重治である。もともと中田の設立したホーリネス教会は、主要教理の四重の福音の一つとして再臨を強調していた。 中田と内村は同じ柏木に住んでいた、それまで交流がなかったが、近所で発生した火災をきっかけに交流を持つようになる。互いに再臨信仰への使命も持っていることを知り、急速に接近して協力するようになった。それに、組合教会の巡回伝道者の木村清松と話し合い再臨運動を始めることになった。さらに、アメリカ留学から帰国したばかりの平出慶一、武本喜代蔵、自由メソジストの河辺貞吉、聖公会の藤本寿作らなどが加わり、超教派の運動として、再臨運動は展開された。運動は、当初東京や関西を中心に再臨講演会をもっていたが、後に北海道から岡山にまで及び、多くの聴衆が出席した。各地の教会に熱烈な信仰復興が起こり、キリスト教界に大きな影響を与えたが、大正8年(1919年)6月には海老名弾正らを中心に基督再臨反対演説会が開かれるなど、キリスト教会内部での反対運動も大きかった。キリスト教界に賛否両論の議論を生んだ運動は、明確な決着を見ずに、ほぼ2年で終息した。しかし、内村は生涯復活信仰を捨てなかった。
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