アナスタシア戦争
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アナスタシア戦争(アナスタシアせんそう、英: Anastasian War)は、東ローマ帝国とサーサーン朝の間で502年から506年にかけて争われた戦争である。この戦争は、北方からの侵略に対するコーカサスの要塞の維持のためのサーサーン朝への補助金の支出を東ローマ帝国が拒んだことが主な原因となって発生した。これは440年以降における両国間の最初の主要な紛争であり、次の世紀にわたって続いた二つの帝国間の長期にわたる一連の破壊的な武力衝突の序章となった。
- ^ a b A. Shapur Shahbazi, (2005年), Encyclopædia Iranica, available online at SASANIAN DYNASTY, 2020年3月30日閲覧。
- ^ 2つの情報源は、テオドシオポリスの包囲中にコンスタンティヌスが果たした役割について矛盾した説明をしている。Zacharias Rhetor, (Greatrex 2002, p. 63) によれば、コンスタンティヌスは捕虜となった。一方、Joshua the Stylite, (Martindale 1980, p. 314) によれば、コンスタンティヌスは皇帝のアナスタシオス1世に対して恨みを抱いたため、ローマ人を裏切った。
- ^ Greatrex & Lieu 2002, p. 62.
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- 1 アナスタシア戦争とは
- 2 アナスタシア戦争の概要
- 3 参考資料
- 4 関連項目
アナスタシア戦争
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詳細は「アナスタシア戦争」を参照 サーサーン朝と東ローマ帝国は、440年の両者の短期間の戦争(東ローマ・サーサーン戦争 (440年))を最後に平和を保っていた。二つの帝国間における最後の本格的な戦争は、シャープール2世(在位:309年 - 379年)の治世中におけるものであった。しかし、502年にはついに再び戦争が起きることになった。496年から498年(または499年)の治世の中断の影響によって財政が破綻していたため、カワード1世は東ローマ帝国に対して補助金の支払いを要請した。東ローマ帝国は以前より北方からの侵略に対するコーカサスの防衛を維持するために、サーサーン朝に対し資金援助を行っていた。ペルシア人は表向きはこれを自分たちに対して支払われるべき負債であるとみなしてた。しかし、東ローマ皇帝アナスタシウス1世(在位:491年 - 518年)は補助金の支払いを拒否し、カワード1世に力ずくで補助金を手に入れさせようとする動機を与えた。502年、カワード1世はエフタルの兵士を含む軍隊とともに東ローマ帝国領アルメニア(英語版)に侵攻した。カワード1世はテオドシオポリス(現在のエルズルム)を、おそらくは都市住民の支援を得て占領した。いずれにせよ都市は軍隊による援護を受けておらず、要塞の防御は弱いものであった。 その後、カワード1世は502年から503年の秋から冬にかけて要塞都市のアミダ(英語版)(現在のディヤルバクル)を包囲した。しかしアミダの攻略はカワード1世が想定していたよりもはるかに困難な目標であることが判明した。防御側は軍隊による支援を受けていなかったにもかかわらず、最終的に占領されるまでの三ヶ月の間ペルシア軍の攻撃を退けた。その後、東ローマ帝国はアミダを奪還しようと試みたものの失敗に終わり、カワード1世もオスロエネ(英語版)のエデッサの攻略には失敗した。505年にはコーカサスからフン族によるアルメニアへの侵攻が発生したために双方の間で停戦する運びとなり、東ローマ帝国はコーカサスの要塞の維持のためにサーサーン朝へ補助金を支払い、アミダは東ローマ帝国へ返還されることになった。和平条約はカワード1世の義兄弟であるアスパーフバド家の貴族バウィ(英語版)によって署名された。カワード1世の東ローマ帝国との最初の戦争は決定的な勝者として終えたわけではなかったものの、アミダの征服は、同じ都市をシャープール2世が占領した359年以降におけるサーサーン朝軍が達成した最大の軍事的成果であった。
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