エフタルの脅威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:45 UTC 版)
425年に、バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でサーサーン朝が勢力を拡大したが、以後エフタルがサーサーン朝の悩みの種となる。428年にアルサケス朝アルメニア(英語版)が滅亡し、サーサーン朝アルメニア(英語版)が成立。 バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世は、東ローマ帝国のテオドシウス2世と紛争(東ローマ・サーサーン戦争 (440年))の後、441年に相互不可侵の約定を結んだ。443年に、キダーラ朝(英語版)との戦いを始め、450年に勝利を納めた。国内において、アルメニア人のキリスト教徒にゾロアスター教へ改宗を迫り動乱が発生した。東ローマ帝国のテオドシウス朝がアルメニアを支援したが、451年にヤズデギルド2世がアヴァライルの戦い(英語版)で勝利しキリスト教の煽動者を処刑して支配を固めた。 ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく457年に世を去った。彼の二人の息子、ホルミズドとペーローズ1世は王位を巡って激しく争い、ペーローズはエフタルの支援で帝位に就いた。 458年にサーサーン朝アルメニアでゾロアスター教への改宗を拒むマミコニアン家(英語版)の王女が夫Varskenに殺害された。エフタルの攻撃を受けサーサーン朝が東方に兵を振り向けていたため、イベリア王国の王ヴァフタング1世がこの争いに介入してVarskenも殺された。ペーローズ1世はアードゥル・グシュナースプ(英語版)を派遣したが、ヴァハン・マミコニアン(英語版)が蜂起してヴァフタングに合流。アードゥル・グシュナースプは再攻撃を試みたが敗れて殺された。 ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年にエフタルを攻めたが、敗れて捕虜となり、息子のカワードを人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。旱魃により財政事情は逼迫、484年に再度エフタルを攻めたが敗死した(ヘラートの戦い(英語版))。485年にはヴァハン・マミコニアンがサーサーン朝アルメニアのマルズバーンに指名される。 488年に、人質に出ていたカワード1世(在位:488年–496年、498年-531年)がエフタルの庇護の下で帰国し、帝位に就いた。しかし、マズダク教の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位された。幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込み、498年に復位(重祚)した。同年、ネストリウス派総主教がセレウキア-クテシフォン(英語版)に立てられた。カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けないことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。 502年に、カワード1世はエフタルへの貢納費の捻出のため東ローマ領へ侵攻し(アナスタシア戦争)、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。この戦いがen:Byzantine–Sassanid Wars(502年–628年)の始まりであった。526年に、イベリア戦争(526年–532年)が、東ローマ帝国・ラフム朝(英語版)連合軍との間で行なわれた。530年、Battle of Dara、Battle of Satala。531年、Battle of Callinicum。
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