劉曜の再興と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 22:27 UTC 版)
318年10月、漢の相国・都督中外諸軍事として長安に駐屯していた劉曜は、蒲坂で皇帝に即位し、漢を再興した。12月には石勒と協力して平陽の靳準を滅ぼし、長安に遷都して国号を趙と変更した。この際、石勒は趙公に封ぜられたが、319年11月に自立し襄国で大単于・趙王を称して後趙を建国した。このため、華北は西に劉曜の前趙、東に石勒の後趙が二分して争う事態となった。 劉曜は北や西に割拠する前涼や前仇池に対して勢力を拡大して後趙に対抗したが、後趙は石勒の下で急速に国力を増強し、次第に押されるようになる。328年7月、劉曜は後趙の攻撃を撃退し、洛陽を奪回するために親征した。これに対して後趙も石勒自らが迎撃し、双方10万を超える大軍で激戦を繰り広げたが、劉曜は敗れて石勒の従子の石虎に捕らえられ、処刑された。
※この「劉曜の再興と挫折」の解説は、「前趙」の解説の一部です。
「劉曜の再興と挫折」を含む「前趙」の記事については、「前趙」の概要を参照ください。
- 劉曜の再興と挫折のページへのリンク