劉柏根の乱に参画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:18 UTC 版)
306年3月、惤県県令劉柏根が数万の兵を擁して東萊郡惤県で挙兵し、惤公と自称した。王弥は下僕を引き連れて彼の傘下に入り、劉柏根から長史(参謀役)に任じられた。従弟の王桑もまた東中郎将に任じられた。劉柏根軍は臨淄へ侵攻すると、都督青州諸軍事司馬略が差し向けた将軍劉暾を返り討ちにし、劉暾を洛陽へ、司馬略を聊城へ撤退させた。だが、その後安北将軍王浚が派遣した軍に敗北を喫してしまい、劉柏根は戦死した。 王弥は敗残兵をかき集めて海岸沿いへ逃れたが、苟純(兗州刺史苟晞の弟)より討伐を受けた。その為、長広山(現在の山東省煙台市萊陽市の東)に逃走して身を隠し、以降は盗賊として活動を継続した。
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