劉暢撃破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:48 UTC 版)
317年2月、漢の将軍劉暢が歩騎3万を率いて李矩討伐に向かい、李矩の陣営から7里の距離にある韓王の古砦に駐屯すると、使者を派遣して李矩に帰順を誘った。劉暢軍は突然襲来したので、李矩は防御する準備が間に合わず、使者を派遣して牛や酒を奉じて偽りの降伏をすると共に、さらに精鋭兵を隠して老兵や弱兵のみを見えるように配置した。劉暢はこれにより大いに油断し、李矩の帰順を信じて攻撃を中止すると、配下の将校と共に宴会を催し、みな酔いつぶれてしまった。これを見た李矩は夜襲を掛けようとしたが、配下の兵は敵が大軍であったので内心恐れていた。その為、李矩は郭誦に命じ、鄭の宰相子産の祠へ参らせて「昔、君が鄭の相であられた時、悪鳥は鳴く事はありませんでした。ですが今は凶胡・臭羯が蔓延っており、彼らがどうして長輩の戒めを理解できましょうか!」と言わせた。また、巫には高らかに「東里(子産の居住地)からのお告げによると、神兵を遣わして協力するであろうとの事です」と言わせた。将士はこれを聞くとみな勇み立ち、先を争って進軍した。ここで李矩は郭誦と督護楊璋らに選抜した勇士千人を与え、劉暢の陣営を夜襲させた。これにより数千人を討ち取って鎧馬を大量に鹵獲し、劉暢は命からがら逃げ果たした。 これより以前、郭黙は李矩が劉暢より攻撃されていると聞き、弟の郭芝に救援させた。郭芝は行軍の途上で劉暢の敗北を知ったが、それでも急ぎ李矩の下へ駆けつけた。李矩は郭芝に五百頭の軍馬を与えると、その日の夜に軍を分けて三方より劉暢軍を追撃させ、郭芝は大勝を挙げてから帰還した。
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