劉斉を用いた宋侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
宋側の官吏である秦檜は、1130年に「天下の争いがなくなることを望むならば、南人(宋)は江南に、北人(金)は華北に留まることが必要である」と平和的解決を提言したが、高宗は自らを北人だと考えており、最初はこの提案を拒否した。1132年には金が投獄した宋の外交官を解放し、1133年には宋が金の臣下になることを申し出るなど、和平に向けた態度が見られたが、和議は実現しなかった。金が要求した国境線を淮河から長江まで南下させるという条件は、両者が合意に至るにはあまりにも大きな障壁であった。 中国北部では抗金勢力の反乱が続いていたため、長江以南の金軍の作戦には支障が出ていた。戦争を長引かせたくない金は、新たに傀儡国家である大斉を建国させた。漢民族の血を引く者が名目上の支配者となる斉が、反乱軍の不満分子の忠誠を集めることができると考え、また人材不足によって、華北全体を支配することは行政的にも不可能であったからであった。1129年の末期には、劉豫が金の太宗の寵愛を受けていた。劉豫は河北の宋人で、1128年に離反するまでは山東済南府知府を務めていた。1130年末、劉斉が成立し、金は劉豫を皇帝として即位させた。河北大名府は、北宋の首都であった開封に移るまで、劉斉の首都であった。劉斉は徴兵制の導入、官僚制度の改革、高率な徴税などを行い、また建国後7年間に亘って宋との戦争に充てた軍隊の大部分は劉斉から出された。 金は劉斉にかつての傀儡政権の大楚よりも多くの自治権を与えたが、劉豫は金軍の命令に従う義務があった。金の支援を受けた劉斉は、1133年11月に宋に侵攻した。宋の裏切り者で斉に加担した李成が作戦を指揮した。襄陽をはじめとする近隣諸県は李成の軍勢によって陥落した。漢江(陝西・湖北の襄陽を攻略したことで、金は長江中流域への廻廊を得たが、金軍の南下は将軍の岳飛によって阻止された。1134年、岳飛は李成を破り、襄陽と及び周辺の県を奪還した。しかし、1134年末、斉と金は、淮河に沿ってさらに東へと新たな攻勢をかけた。この際高宗は初めて劉斉を断罪する詔勅を下した。斉・金連合軍は淮河流域で連勝したが、揚州では韓世忠に、廬州では岳飛に撃退された。1135年、金軍が太宗の死を受けて突然撤退したことで、宋は再整備の時間を得た。1136年末、劉斉が寿州を攻撃して戦争が再開され、宋の濠州を攻撃した。金は藕塘で、楊沂中が率いる宋軍との戦いに敗れた。この勝利は宋軍の士気を高め、軍監兼宰相の張順は高宗に反撃の計画を始めるよう説得した。高宗は同意したが、この際酈瓊という将校が上官を殺害し、数万の兵士を連れて金に亡命したため、反攻を断念せざるを得なかった。一方、熙宗完顔合剌は太宗から金の帝位を継承し、和平を推し進めた。劉豫の軍事的失敗から、完顔合剌と金の将軍らは、劉豫が岳飛と密かに共謀しているとして、1137年末、金は劉豫の称号を蜀王に下げ、斉国を廃止した。その上で宋金両国は和平交渉を再開した。
※この「劉斉を用いた宋侵攻」の解説は、「宋金戦争」の解説の一部です。
「劉斉を用いた宋侵攻」を含む「宋金戦争」の記事については、「宋金戦争」の概要を参照ください。
- 劉斉を用いた宋侵攻のページへのリンク