劉敞とその家系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 04:11 UTC 版)
劉敞は家系的に恵まれていた。祖父の劉式は、南唐の遺臣であったため、太祖時期に仕えるために開封に上がり、そこを根拠地とした。しかし南唐の遺臣であることがネックになってか、有能な官僚としての称讃を与えられながらも、それほどの栄達は出来なかった。しかし劉式の妻の陳氏は、夫の死後もその蔵書(墨荘)を守り、五人の子供達に勉学を授けた。これは南宋以後に墨荘劉氏と呼ばれる契機を与えた。 劉式の五人の息子達は、何れも科挙に登台すると同時に、往々にして都の名家との姻戚関係を持ち、劉氏繁栄の基礎を築いた。その中でも劉立之は、欧陽脩や梅堯臣といった当時の著名な学者・文章家と交遊を持ち、有力な人脈を築くことに成功した。 劉立之の子の劉敞と劉攽は、祖父と父の代に築かれた地縁血縁を利用しながらも、自身も科挙に登台し、経学者・文章家・歴史家などといった多様な才能を開花させ、宋代史上有数の士大夫として名を留めることになった。なお劉敞の子の劉奉世が籤書枢密院事にまでのぼったのが最高位であった。 劉敞以後の劉氏一族は余り芳しくなかった。劉奉世は元祐年間最末期には有力政治家として活躍していたが、元祐時代の旧法党勢力を支えていた宣仁太后の崩御によって一挙に形成は不利になる。哲宗親政によって開始された新法を目にした劉奉世は職を辞任するが、哲宗時期に行われた旧法党排除の政争の為、以後政和3年(1113年)に73で卒するまで、地方に押し込められたままであった。 金の進撃による北宋政権の壊滅(靖康の変)を受け、華北に展開していた劉氏一族は再び南方に本拠地を移す。特に本貫地の臨江軍を中心としつつ、撫州や金鶏などにも一族を拡散させる。南宋中頃には、朱熹と交遊したことで著名な劉清之(劉敞の直系ではなく、劉立之の弟の劉立徳の家の出)などが生まれている。ただ全体として、朝廷の高官に名を連ねるような学者は生まれず、現在に至っている。ただ清朝初期には水西(新喩県の地名)付近には劉敞の末裔たちが居住しており、『三劉全集』などを編纂している。またその子孫は今でも新喩県(中華人民共和国になって新余市渝水区と改称)にいるとされる。
※この「劉敞とその家系」の解説は、「劉敞」の解説の一部です。
「劉敞とその家系」を含む「劉敞」の記事については、「劉敞」の概要を参照ください。
- 劉敞とその家系のページへのリンク