劉曜との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:18 UTC 版)
これより以前、襄城から洛陽へ向かう折、王弥は劉曜を待たずに先んじて洛陽に入っていたので、劉曜はその事を怨んでいた。また、劉曜は王弥へ洛陽での略奪を禁じるよう命じたが、王弥はこれに従わなかった。その為、彼は王弥配下の牙門王延を見せしめとして処刑してしまった。王弥は怒って劉曜の陣に攻撃を掛け、劉曜もまたこれを迎撃し、双方の死者は千人を超えた。見かねた王弥の長史である張嵩は「明公(王弥)は国家の為に協力して大事を興し、事業を助けている立場であります。それなのに、このような所で互いに攻め合っております。何の面目あって主上(劉聡)に顔向けできるのですか!洛陽平定の功は確かに将軍(王弥)にありますが、それでも劉曜は皇族ですから、ここは下手に出るべきです。孫呉を平定した際の二王(王渾と王濬)の諍いは、決して遠い話ではありません。願わくば将軍がこの事をよくお考え下さん事を。将軍がもし兵を動かして彼らと袂を分かったならば、子弟や宗族はどうなると思いますか!」と固く諫めた。これを受け、王弥は「その通りだ。微子(殷の微子啓。末弟の紂王を幾度も諫めるも聞き入れられなかった)よ。我はこの過ちに気づかぬところであった」と言い、劉曜のもとに赴いて謝罪した。こうして両者は和解し、うわべだけはお互いに友好的な態度をとった。王弥はまた「下官(王弥)は過ちに気づきましたが、これは張長史(張嵩)の功績です」と述べると、劉曜もまた張嵩を褒め称えた。王弥と劉曜は共に張嵩に金百斤を下賜した。 また、王弥は劉曜へ「洛陽は天下の中心であり、四方を山河の険で固めております。また、城郭・宮室を新たに築造する必要もありませんから、平陽からここに移すべきかと」と進言した。だが、劉曜はこれに従わず、宮殿に火を放ってから軍を撤退させてしまった。王弥は大いに怒り「屠各(匈奴の種族名)の子め。どうして帝王の意が理解できようか!汝は天下を如何に考えているのか!」と言い放ち、軍を率いて東の項関に駐屯した。 洛陽攻略戦の中で王弥は西晋の司隷校尉劉暾を捕らえていたが、彼とは同郷だったので処断せずに傍に仕えさせるようになっていた。その劉暾は進み出て「今、九州は混乱しており、群雄が天下を狙っています。将軍は漢の為に並ぶ事のない功績を立てましたが、始安王(劉曜)と対立することとなりました。これでは漢に留まることは難しいでしょう。東に向かい本州(王弥の本籍である青州東萊郡)に拠点を築き、天下の形勢を見守るべきです。上は四海を混一する事が出来、下は鼎峙の業を失う事もありません。これこそ上者の策です」と進言すると、王弥はこれに同意した。これにより、次第に王弥は漢の従属関係から距離を置き、自立の道を模索するようになっていった。 8月、これまでの功績により王弥は大将軍に任じられ、斉公に封じられた。この時期、王弥配下の徐邈・高梁が兵士数千人を率いて王弥の下を去り、青州に割拠する曹嶷の下に向かってしまった。これにより王弥の勢力は衰えた。
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