劉曜に嫁ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 22:42 UTC 版)
311年6月、漢(後の前趙)の征討大都督劉曜・征東大将軍王弥・前軍大将軍呼延晏らが洛陽へ襲来し、晋軍は抗し切れずに洛陽は陥落した。この事件を史書は永嘉の乱と呼ぶ。この時、羊献容は漢軍に捕らえられて漢の都である平陽に連れ去られ、劉曜に見初められてその妻となった。やがて羊献容は劉曜との間に劉煕を始め3人の子を生んだ。 318年8月、漢の大将軍靳準が平陽で反乱を起こし、漢の皇族を皆殺しとした。劉曜は長安を守っていたので難を逃れ、百官の求めに応じて皇帝に即位し、羊献容は皇后に立てられた。彼女にとって実にこれが七度目の皇后擁立となる。劉曜には正妻卜氏との間に劉胤という優秀な世子がいたが、靳準の乱により行方不明になっていたので、羊献容の実子である劉煕が皇太子に立てられた。羊献容は劉曜の寵愛を受け、後宮の取り仕切りだけでなく政治にも参画した。 ある時、劉曜は羊献容へ「朕と司馬家の男を比べたらどうかね」と問うた。羊皇后は「陛下は開業の聖主ですが、彼(恵帝)は亡国の暗夫に過ぎないので、比べるまでもありません。彼は帝王でありながら、一婦一子どころか自分の身も守ることができませんでした。妾(私)は当時、天下の男とは全てこうであるのかと思い、生きる希望も失ったものです。陛下に嫁いでから始めて天下に大丈夫がいることを知りました」と語った。これにより劉曜はますます羊献容を寵愛するようになったという。 羊皇后は度々政治に深く干渉するほどの力を持つようになったが、群臣の中にはこれを不快に思うものも多かったという。 322年、羊献容はこの世を去った。劉曜により献文皇后と諡された。 12月、劉曜は巨大な陵墓を作ると、羊献容を埋葬して墓号を顕平陵とした。
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