劉水公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 03:45 UTC 版)
同年に北京政府派の劉存厚が南方政府派の熊克武に敗北して陝西省南部に敗走する。しかし劉成勲はこれに随従せず四川省内に留まり、劉湘らとともに熊を四川靖国軍総司令に推戴した。劉成勲は四川第4師師長に任命され、新津に駐屯した。1920年(民国9年)5月、熊は、省内からの雲南軍追放のために戦いを開始し、劉成勲を第3軍軍長に任命した。しかし劉成勲はこれに呼応せず、傍観している。同年7月、劉成勲は、広東軍政府から幇弁四川軍務に任命された。 同年8月、熊克武と劉存厚が和解して靖川軍を組織し、呂超討伐の戦いを開始すると、劉成勲もこれに参加した。まもなく熊と劉存厚が対立し、1921年(民国10年)、熊が劉存厚駆逐の戦いを開始する。劉成勲は熊に味方したものの、あくまで旗幟を掲げたのみで実際の軍事行動を起こさなかった。同年6月の川軍総司令劉湘が指揮する湖北省出征(「援鄂」)にも加わらず、傍観した。 以上のような、巧みな勢力保存の動きを揶揄され、川軍指揮官の間で劉成勲は「水漩」、一般人からは「劉水公」等と呼ばれた。
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