劉淵から劉聡へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 22:27 UTC 版)
劉淵は子の劉聡・親族の劉曜を従えて司馬騰を破り、河東地域を占領した。この勢力拡大の過程で羯族の石勒や漢民族の名族の王弥・劉霊などを従えて并州を攻略するだけではなく有能な人材も手に入れている。308年10月には蒲子において劉淵は皇帝に即位し、309年1月には平陽に遷都した。劉淵は西晋を滅ぼすべく洛陽に何度も攻め入った。だが306年12月に西晋も東海王司馬越の下で懐帝が擁立されて八王の乱は平定されており、漢軍は劉聡を中心にして西晋を攻撃したが、その都度司馬越に敗れて勢力拡大を阻まれていた。 310年6月に劉淵が病死し、長男の劉和が継いだ。だが、暴君の劉和には人望が無く兄弟を排除して地位の安定を図ったため、7月に弟の楚王劉聡が謀反を起こし、劉和は母方の叔父の呼延攸と共に劉聡と内通した部下によって殺された。
※この「劉淵から劉聡へ」の解説は、「前趙」の解説の一部です。
「劉淵から劉聡へ」を含む「前趙」の記事については、「前趙」の概要を参照ください。
- 劉淵から劉聡へのページへのリンク