西晋を滅ぼす
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
315年8月、劉曜が盟津を渡って河南にいる西晋の将軍魏該を逃亡させ、また滎陽に進んで滎陽郡太守の李矩を攻めて降伏させた。加えて上党に軍を進めて并州刺史の劉琨を破り、さらに陽曲を攻めようとしたが、ここで劉聡の使者から今度は「長安がいまだに余命を保っていることは、国家の深く恥じるところである。公は長安を先にして、陽曲は驃騎将軍に任せるように」との命を下され、劉曜は軍を転進して郭邁を討つと、劉聡の下へ帰還した後に蒲坂へ赴いた。 10月、劉曜は長安攻撃のために再び軍を進め、粟邑に屯した。西晋は麹允を大都督・驃騎将軍に任命して劉曜を防がせたが、麹允の軍は食糧不足が深刻となった。劉曜は郡城を包囲し、救援に赴いた歩騎3万の麹允の軍に「郡城は既に落ちた」との虚報を流して瓦解させ、これを追い払った後に郡城を陥落させて北地を占領した。この時劉曜は西晋の建威将軍魯充を捕虜としたが、魯充は「私は晋将であり、漢に仕えてまで命を繋げる事はできません。公(劉曜)の恩を得ることができますなら、速やかに死を賜っていただけますよう」と述べると、劉曜は「これぞまさしく義士である」と称賛し、剣を与えて魯充に自殺を命じた。また同じく捕虜とした散騎常侍梁緯の妻である辛氏は容貌が優れており、劉曜は辛氏を側室に迎えようとしたが、辛氏は涙を流しながら「夫が既に死んだのに、一人生き残るのは義に背きます。一婦が二夫に仕えることを、明公(劉曜)は許すというのですか」と語った。劉曜は「汝は貞女である」と称え、辛氏にも自殺を命じた。劉曜は魯充と辛氏の亡骸を手厚く葬った。 316年11月、愍帝は遂に降伏を決意し、侍中宋敞を遣わして劉曜に書状を送った。しかし征東大将軍の索綝は宗敞を留めると、自らの子を劉曜の下へ派遣し好待遇を条件に降伏を持ち掛けた。しかし劉曜はこれを拒否し、索綝の子を処刑して送り返すと「帝王の軍とは義によってのみ行動するものである。我は兵を率いて15年になるが、偽計で敵を破ったことなどない。もしも城内に食糧があるのなら堅守するがいい。もしも食糧がなく戦う気力も尽きたのなら、速やかに天命に従え」と伝えた。その後愍帝は羊車に乗り、上半身の服を脱ぎ、璧玉(高価な宝石)を口に含み、棺と共に東門から出て出降した。劉曜は愍帝の棺を焼き、璧玉を受け取ると、宗敞に命じて愍帝を一旦宮中に帰らせた。その後改めて愍帝を迎えに赴き、その身柄を平陽へと送った。劉聡は愍帝を光禄大夫に任じ、懐安侯に封じた。劉曜は尚書梁允・侍中梁濬等や諸郡太守を殺害し、散騎常侍華輯は南山に逃走した。長安攻略の功績により、劉聡は劉曜に黄鉞を下賜し、大都督・陝西諸軍事・太宰に任じ、秦王に封じた。また、長安の鎮守を命じた。
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