西晋に仕官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:18 UTC 版)
貧しい家に生まれ、身分は低かったという。 若い頃に司隷部従事に取り立てられ、校尉石鑒によりその才能を高く評価された。 やがて東海王司馬越が侍中に任じられた際、司馬越からの招聘を受けて通事令史に任じられた。その後、昇進を重ねて陽平郡太守に任じられた。 301年、斉王司馬冏が朝政を主管するようになると、苟晞は司馬冏の軍務に参画し、尚書右丞に任じられた。その後、尚書左丞へ移った。彼は諸々の曹の監査に当たり、八座(六曹尚書・尚書令・尚書僕射を指す)を始めとする官員から恐れ憚られたという。 303年12月、司馬冏が誅殺されると、苟晞は連座により免官となった。しばらくして長沙王司馬乂が驃騎将軍となると、復職して従事中郎に任じられた。 304年、司馬越が恵帝を奉じて成都王司馬穎の征討に向かうと、苟晞は北軍中候に任じられた。だが、遠征軍は敗れて恵帝は捕らわれた。 8月、幽州刺史王浚と東嬴公司馬騰が挙兵して司馬穎の本拠地鄴を攻略し、恵帝を洛陽へ帰還させた。この時、苟晞は范陽王司馬虓の下へ逃れ、司馬虓の承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する事)により行兗州刺史に任じられた。また、時期は不明だが濮陽郡太守にも任じられている。
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