西晋による中国統一
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「三国時代 (中国)」の記事における「西晋による中国統一」の解説
司馬昭は265年に死去し、子の司馬炎が後を継ぐ。司馬炎は魏の曹奐からの禅譲を受けて、魏が滅び、西晋が建国された。その後、司馬炎はしばらくは内部を固めることに時間をかけた。 264年、呉の皇帝の孫休が崩御し、孫晧が皇帝に即位したが、暴政を行い、呉の政治は乱れた。 270年、鮮卑の禿髪樹機能らが西晋に反乱を起こし、西晋の秦州刺史・胡烈や涼州刺史・牽弘を討ち取った。禿髪樹機能の反乱は羌族ら他の民族も参加する大規模なものだったが、277年、西晋の司馬駿・文鴦が禿髪樹機能を降伏させた。279年、禿髪樹機能は再び西晋に反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の馬隆に滅ぼされた。 271年、呉の虞汜・陶璜らは交州の西晋軍を破り、交阯郡・九真郡・日南郡を制圧した。 272年、歩闡が呉に背き、西晋に寝返ったが、呉の陸抗がこの反乱を鎮圧した。 279年、西晋の司馬炎は呉に出兵し、280年に呉を滅ぼし、ついに中国統一を実現した。ここをもって三国時代は終わった。 統一後の司馬炎はまったく堕落し、女色に耽って政治を省みず、上級官僚の間では現実の政治を無視した清談が流行した。さらに司馬炎は、地方分権を図り一族を地方の王として任命し、大きな権力を与えたため、皇后の一族らと司馬一族による権力争いが起こった。この乱で国力を消耗した晋は劉淵による漢の建国とその侵攻によって統一から30年で崩壊し、再び中国は分裂状態に逆戻りすることとなった。
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