漢の建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:48 UTC 版)
304年10月、劉淵は左国城に拠点を移すと、遠方から劉淵の下に集まった人は胡人・漢人問わず数万に上った。ここにおいて劉淵は正式に晋朝からの自立を宣言し、かつて先祖である冒頓単于が漢王朝と兄弟の契りを結んで漢の皇族を妻に娶っていたことから、匈奴と漢氏とは甥の関係であるとし、自らを前漢・後漢のみならず蜀漢の後継者と称した。そのため、国号を漢(劉曜の時代に前趙と改称)と定めて漢王朝の復興を大義名分として掲げると共に、南郊に祭壇を設けて漢王に即位し、領内に大赦を下して年号を元熙と定めた。 また、劉禅を孝懐皇帝と追尊し、漢の高祖(劉邦)以下、三祖五宗の神主を祭り、妻の呼延氏を王后に立てた。さらに百官を置き、劉宣を丞相に、崔遊を御史大夫に、劉宏を太尉に、范隆を大鴻臚に、朱紀を太常に、崔懿之・陳元達を黄門郎に、劉曜を建武将軍にそれぞれ任じ、他の人にも身分・能力に応じてそれぞれ官位を授けた。
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