漢の外戚
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若い頃の事績は明らかになっていない。漢(後の前趙)の朝廷に仕え、劉聡の時代には中護軍の地位にあった。少なくとも3人の娘がおり、その中でも靳月光と靳月華はその容姿い評判があった。315年、劉聡は靳準の屋敷へ赴くと、彼女らを後宮に迎え入れ、左貴嬪・右貴嬪(皇帝の側室の称号)に立てた。その数カ月後、靳月光は皇后となり、さらに後に上皇后に立てられた。また、靳月華は右皇后となり、末娘の靳氏もまた劉聡の世子である劉粲の妻となった。これにより靳準は劉氏の外戚となり、権勢の一端を担うようになった。 同年、御史大夫陳元達は上奏し、靳月光が淫行を為したとして弾劾した。劉聡は靳月光を特に寵愛していたが、父の代からの功臣である陳元達の発言を無視するわけにもいかず、やむなく皇后から廃した。靳月光はこの一件を大いに恥じ、間もなく自殺してしまったので、靳準は陳元達を深く恨むようになった。 当時、宦官である中常侍王沈・中宮僕射郭猗・中黄門陵修らはみな劉聡から寵遇されており、315年頃より劉聡が政務を怠るようになると、彼らが朝政を仕切るようになっていた。王沈らの車・衣服・邸宅の豪華さは諸王を超え、良民を迫害して財貨を着服していたが、靳準は彼らに媚び諂ったという。 靳準の従妹は皇太弟劉乂に側室として仕えていたが、侍人と密通したことにより、劉乂の怒りを買って処刑された。これ以降、劉乂はこの事で靳準をたびたび嘲笑したので、靳準は深く恥じ入ると共に憤った。そのため、彼は劉乂を皇太弟の地位から引きずり降ろそうと考え、劉聡の嫡男である劉粲の下へ赴いて「大将軍(劉敷)と衛将軍(劉翼、いずれも劉粲の弟)が皇太弟(劉乂)を擁立して造反を起こすと言う話は、今や道行く人でさえ知っています。もしも皇太弟が天下を取ったら、殿下には身を入れる場所さえなくなってしまいます。前漢の成帝は生母の王太后の言を容れなかったために、王莽の簒逆を許すことになりましたが、殿下はそれでよいのですか」と問うと、劉粲は「許してよいはずがない」と答えた。靳準は「噂によれば大将軍・衛将軍らは皇太弟を奉じて、春に政変を起こそうとしているとの事ですが、主上(劉聡)は皇太弟を信じておられるので、おそらくは造反を告げても信じられないでしょう。一案として、東宮の禁固を緩めて皇太弟の賓客との交わりを許可するのです。その中には謀反を唆す軽薄な小人も出てくるでしょうから、後に私が殿下のためにその罪を暴露させますので、殿下がその者を捕えて責めれば、主上もこれに罪があるとされるでしょう。この案を用いなければ、朝望が皇太弟に多く帰している今、主上にもしものことがあれば、殿下は恐らく立つことができないでしょう」と告げた。 317年3月、劉粲は腹心の王平を通して劉乂に対し「詔によれば都で変事が起ころうとしております。武具を集めて備えられますように」と偽りの通達を送り、これを信じた劉乂が宮臣に命じて宮殿に武具を集めさせると、靳準・王平は劉乂が謀反を図ったとしてこれを劉聡に報告した。劉聡は大いに驚き「そのようなことがあるのか」と半信半疑だったが、王沈らが声を揃えて「臣らは久しくこのことを聞き知っておりましたが、陛下が信用されないことを恐れていたのです」と言うと、劉聡は遂に信じ、劉粲に命じて東宮を包囲させた。靳準は劉粲の命により、氐族・羌族の酋長10人余りを捕えて肉刑を加え、劉乂と共に反逆を謀ったとの嘘の自白を強要した。またこの時、靳準は普段から憎んでいた大臣および官属数十人を誅殺した。4月、劉乂は廃されて北部王に降格となった。間もなく劉粲の命により、靳準は刺客を放って劉乂を殺害した。 318年、劉聡が王沈の養女を左皇后に立てると、尚書令王鑒・中書監崔懿之らがこれを固く諫めた。劉聡は大怒し、劉粲に命じて彼らを捕らえて市に送った。刑の執行に際して崔懿之は王沈へ「靳準の容姿を見るに必ずや国の患いとなるだろう。また、汝も人を食らったからには、必ずや人が汝を食らうだろう」と言い放ったという。
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