漢の敵としての曹操
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「三国志演義の成立史」の記事における「漢の敵としての曹操」の解説
『演義』における曹操は、小ずるい悪党どころか、奸絶と称されるほどの巨悪として君臨する。これは上記のような曹操の詐譎という性格のみによるものではなく、『演義』を最終的に完成させた儒教的知識人の、曹操への評価が反映されたものである。 曹操は、後漢時代の儒教的名士である「清流」と対立し、目の敵とされた濁流=宦官の孫であり、また最終的な漢朝の簒奪者でもある。曹操自身は自らを周の文王になぞらえ、簒奪には及ばなかったが、曹操の死の直後に子の曹丕が献帝に禅譲を強要して魏を建国したことから、漢を聖徳王朝と見なす儒教的観点から見れば悪そのものだった。また曹操は後漢王朝で官吏登用基準とされた儒教的道徳よりも、個人の才覚を重んじた。曹操が発した求賢令(210年)は「才能がある者なら下賤の者でも道徳なき者でも推挙せよ」という唯才主義を前面に押し出したものである。さらに儒教に変わる新たな価値観として、文学を称揚して建安文学を主導し、一方で儒教的名士である孔融や楊修を殺した。こうした曹操の言動は儒教的価値観から見れば異端以外の何者でもなく、激しい批判の対象となった。 それゆえに『演義』で強調される曹操の残忍性・狡猾性は、儒教の忠節の対象であり、理想化されていた漢王朝の皇室に対しての行為に顕著に現れる。第20回では許田で狩猟を行った際に、献帝の獲物を曹操が平気で横取りし、憤慨した関羽が曹操を殺そうと息巻いて劉備に抑制される(後の華容道の場面との対比となっている)。また第66回では、伏完の造反計画が露呈した際、捕らえられた娘の伏皇后に対して曹操自らが罵倒し、その場で打ち殺させるという残忍さを見せ、毛宗崗も註釈で痛憤している。この件は裴注の『曹瞞伝』を元に作られた場面であるが、曹操自らが皇后を罵倒して殺害させたとするのは『演義』の創作である。こういった漢室への悪行は、ライバル劉備が漢室の末裔という高貴性を受け継いでいるのと対照的に、ことさらに簒奪者としての悪印象を植え付けるための措置でもある。『演義』編者にとって王朝簒奪は許し難い悪行であり、憎悪の対象は曹操のみならずその臣下にまで及んだ。たとえば献帝から曹丕への禅譲が行われた際に、皇帝の璽綬を奉戴する役割だった華歆は、正史では清廉潔白・謹厳実直な能吏として記述されているが、『演義』では正反対の卑賤陋劣な人物として曲筆されている。 悪の面を強調する一方で、長所を削ぎ落とすことも行われた。正史や『通鑑』には、魏臣が曹操を褒め称えたり、曹操が過去の因縁に囚われず敵方にいた武将を抜擢・重用する記述は少なくない。しかしそうした話も、全体の筋に関係がないものは、ことごとく削除されている(たとえば臧覇・畢諶・魏种らの登用など)。とはいえ『演義』は、筋の展開に必然性がある場面であれば、史書に由来する曹操の優れた面の記載を排除することはしなかった。戦場で鮮やかな詩賦を詠み、外交や調略を駆使して馬超や張魯などの勢力を操る一方、陳宮の死に涙し、関羽や趙雲への思慕を隠さず、能力重視で人材を活用する姿勢など、文学者としての顔、スケールの大きな戦略家としての側面、人材を貪欲に求める名君としての魅力も随所に織り込まれている。これにより人物像に厚みが増し、曹操は単純な悪玉ではなく、主人公たる劉備や孔明らにとって、乗り越えるべき巨大な障碍として立ちふさがる「大いなる敵」としての存在感を持った人物として描かれた。それこそ、曹操が「奸絶」と評されたゆえんである。
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