漢への抵抗と降伏とは? わかりやすく解説

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漢への抵抗と降伏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 02:24 UTC 版)

愍帝 (西晋)」の記事における「漢への抵抗と降伏」の解説

建興2年314年2月司空王浚大司馬に、衛将軍荀組司空に、涼州刺史張軌太尉任じ西平郡公に封じる并州刺史劉琨大将軍任じる3月、漢の部将石勒幽州攻略し大司馬幽州牧の王浚殺害された。5月西平公の張軌死去7月、漢の部将劉曜趙染らが長安侵攻すると麹允がこれを迎撃趙染戦死させた。 建興3年315年2月司馬睿大都督・督中外諸軍事・右丞相に、司馬保相国昇進させ、司空荀組太尉に、大将軍劉琨司空任命した9月劉曜北地侵攻すると、領軍将軍麹允迎撃した。10月豫州牧・征東将軍索綝尚書僕射都督宮城諸軍事に任命する12月涼州刺史張寔皇帝行璽一紐をよこしてきた。 建興4年316年7月劉曜北地侵攻し麹允歩兵騎兵3率いて救援向かったが、戦わずして軍が崩壊し北地郡太守の麹昌は長安逃亡した8月劉曜の軍が長安孤立させた。食料不足となった長安では人同士食らい合い多く死者出たことから、11月愍帝侍中の宋敞を劉曜派遣して降伏平陽連行された。降伏した司馬鄴劉聡により光禄大夫懐安侯とされた。 平陽連行され愍帝狩り時の先導役とされ、宴会では杯を洗わさせられるなど懐帝同様の屈辱的な処遇受けた後、建興5年317年12月昭武帝劉聡平陽殺害された。享年18司馬昭ならびに司馬炎からの皇統断絶し、これにより西晋は完全に滅亡した皇族愍帝にとっては父の又従兄弟)の琅邪王司馬睿建康愍帝の諱を憚り建業から改称)において即位し晋王朝継続するが、その支配江南のみに留まり一般的に東晋呼ばれそれ以前西晋とは区別される

※この「漢への抵抗と降伏」の解説は、「愍帝 (西晋)」の解説の一部です。
「漢への抵抗と降伏」を含む「愍帝 (西晋)」の記事については、「愍帝 (西晋)」の概要を参照ください。

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