漢中で自立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 14:18 UTC 版)
祖父は巴蜀(現在の四川省)の道教教団(五斗米道)の創始者であり、道術で人々を惑わし、道術を学ぼうとする者から5斗の米を受け取ったことから「米賊」とも呼ばれた。その死後は父が継いだ。父が亡くなると張魯が後を継いだが、父亡き後の巴蜀では、巴郡巫県の人である張脩(中国語版)(張修)の鬼道教団が活発になっていった。 張魯の母は巫術に長けた美貌の持ち主で、益州での独立の野心を持つ益州牧の劉焉の家に出入りし、盛んに取り入った(蜀志「劉二牧伝」)。 張魯は劉焉の命令で、督義司馬に任命された張脩と共に漢中太守の蘇固(中国語版)を攻めるよう命じられた。その後、張魯は張脩を殺害してその軍勢を奪い取り、教団を一つにまとめた。 劉焉が亡くなると子の劉璋が後を継いだが、張魯は劉璋に従わず漢中郡で独立を果たし、漢寧郡と改称した(『元和郡県図志』)。そのため、建安5年(200年)に母と家族(弟の張徴)は激怒した劉璋によって囚われ、処刑された。劉璋は張魯の軍勢に対抗するために巴西に龐羲を太守として送ったが、国内が乱れたため、張魯とは冷戦状態のままとなった(蜀志「劉二牧伝」)。 張魯は自身を「師君」と称し、門徒を「鬼卒」と呼び、さらには道術を深く学んだ一部の者を「祭酒」という地位につけ、教団の統率に利用した。教団の規模が拡大すると、「祭酒」の上に「治頭大祭酒」を置いた。 誠実さを旨とし、嘘をつくことを戒め、病人が出ると犯した過失を告白させた。黄巾のやり方を踏襲していたとされる。 張魯が治めていた漢寧では街道が各所に敷かれ、「義舎」(休憩所や食堂の類)も造られた。また、信者から得ていた税や寄進などによる5斗の米も、自身の享楽に使うことはほとんどなく、扶助関係に費やした。張魯は漢中で、当時としては珍しいほどの善政を敷いていたのである。 こうして張魯は、後漢の実権を握った李傕や曹操でさえも、簡単には手出しできないほどの勢力を築いた。朝廷は張魯を鎮民中郎将・漢寧太守に任じ、その支配を追認して、義務も貢納のみでよいとした。住民から玉印を献上されると、部下達が張魯に漢寧王を名乗るよう進言したが、閻圃が「王を名乗れば災厄を受ける」と諫めたため、王号を名乗らなかった。
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