漢人の移民と異民族の同化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 23:51 UTC 版)
「漢の南方拡大」の記事における「漢人の移民と異民族の同化」の解説
漢の時代、華北・中原から雲南・広東に漢人が入植する流れが生まれた。王莽の時代には、中原の混乱から逃れる移民運動がさらに加速した。しかし、彼ら移民や駐留兵は、南方特有のマラリアや住血吸虫症などの病に苦しめられた。 百越や滇族の同化は、中国帝国の強大な軍事力と、漢人の移民や亡命者などによるものであった。移民は自分たちの漢文化と入植先の文化を混合して独自の文化を築いた。現代の発掘調査からも、漢代の南方に中国文化がもたらされていたことが立証されている。広東の古墳を調査すると、先住民の道具や陶器が次第に前漢期の中国的なものに取って代わられていく過程が分かる。例えば、前漢期型の銅鏡、暖房、井戸、香炉、照明器具などが見つかっている。 広西や貴州の文化同化は広東より遅く、前漢後期に始まった。広東と同様に、これらの地域の墳墓からも漢的な鏡、硬貨、陶器、青銅器、鉄器、漆器が見つかっている。 現代の雲南にあたる地域が漢に取り込まれたのは、紀元前109年の事である。中国文化の影響力が強まっていく様子は、発掘された滇の工芸品、硬貨、陶器、鏡、青銅器から分かる。滇族の芸術は中国的なものになっていき、古来の様式のものは100年ごろには多くが消え去っていた。秦に始まり漢のもとで最高潮に達した南方拡大は、中国北部の文化が南方の文化を席巻する結果をもたらした。
※この「漢人の移民と異民族の同化」の解説は、「漢の南方拡大」の解説の一部です。
「漢人の移民と異民族の同化」を含む「漢の南方拡大」の記事については、「漢の南方拡大」の概要を参照ください。
- 漢人の移民と異民族の同化のページへのリンク