漢中占領とは? わかりやすく解説

漢中占領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/26 20:05 UTC 版)

陽平関の戦い」の記事における「漢中占領」の解説

峻険山々囲まれ天然要害となっていた漢中劉邦ゆかりの漢の国名由来する地であり、戦略的に関中と蜀をつなぐ重要なであった難攻不落要衝である陽平関を突破できず、曹操軍足止め余儀なくされた。一方、これを迎え撃つ張魯は、出兵すれば多大な犠牲が出ることを恐れ戦には消極であったが、軍任されていた弟にあたる張衛強硬的な判断によって出兵断行された。はじめ、張衛軍は曹操軍劣勢に追い込み曹操形勢不利と見て撤退開始した曹操劉曄提案従い再び陽平関を攻め曹操撤退した思い油断していた張衛軍を夜襲弓矢大規模な攻撃大い破った張衛逃走し曹操陽平関を占領した董昭の上奏文では、曹操軍夜襲偶然だとしている。曹操は本気で撤退決めており、夏侯惇許褚山上陣取る先鋒高祚軍を引き揚げさせた。曹操軍撤退することを知った張衛警戒解いたが、夜中数千頭の鹿が陣に飛び込んできて張衛軍は仰天した。さらに撤退中の高祚軍は夜中のために道に迷い知らず知らずのうちに張衛の陣に迷い込んでいた。少数高祚軍は味方を呼ぶために軍鼓打ち鳴らしたが、張衛軍はそれを曹操軍夜襲勘違いして大混乱陥った後続軍の監督をしていた劉曄はここで攻めれば張衛打ち破れると判断し早馬曹操再攻撃進言した。ここで曹操再攻撃決意し大量の弩をもって敵陣攻撃して張衛撃破したとされている。 陽平関が落とされたと知るや張魯巴中敗走決めたが、このとき彼は兵糧宝物を倉に貯めたまま手をかけず、無傷残したとされるその後曹操降伏した張魯行い賞賛し、鎮南将軍任じ遇した曹操陣営では「勝利勢い乗って蜀へなだれ込むべきだ」という臣下意見出たが、曹操これ以上の欲は持つべきではなく漢中制圧という目的達成した素早く軍を引き揚げたという。

※この「漢中占領」の解説は、「陽平関の戦い」の解説の一部です。
「漢中占領」を含む「陽平関の戦い」の記事については、「陽平関の戦い」の概要を参照ください。

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