張衛
(?~215) |
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張魯の弟《張魯伝》。張魯には張衛のほか、劉璋に殺された弟がいる《張魯伝》。 建安二十年(二一五)、曹操が軍勢を催して陽平関に攻め寄せたとき、兄張魯は使者を出して降服の意志を示したが、張衛は独断で軍勢を率いて関所を固守し、楊昂らとともに山々に防衛線を張った。陽平山頂にも陣営を連ねており、これを攻撃した曹操軍は多くの死傷者を出した。曹操はすっかり意気阻喪し、撤退を決意、夏侯惇・許褚を使者として山上の軍勢を引き揚げさせた《武帝紀・張魯伝》。 張衛らは曹操軍が撤退しようとしているのを見て警戒を解いた《武帝紀》。夜中、数千頭の大鹿の群れが飛び込んできたので、張衛軍は胆を冷やした《張魯伝》。曹操軍本営の先鋒解〓・高祚も引き揚げようとしたが、夜中のことで、知らず知らず張衛の陣営に迷い込んでしまった《武帝紀・張魯伝》。 『武帝紀』では、張衛が警戒を解いたのを見て、曹操が高祚らを山伝いに進めて夜襲をかけたとしている。しかし高祚が陣中に迷い込んだため張衛軍が自壊したとするのは董昭・楊曁らの上奏文であり、事実に反して先帝の名誉を損ねることはあり得ない。董昭らの説を採用すべきと考えられる。大鹿の群れは山中の高祚軍に驚いて逃げ出してきたものだろう。敵伏兵の接近を暗示している《孫子》。 高祚らは手勢が少なく、軍鼓を激しく打ち鳴らして味方を呼んだため、張衛軍は夜襲だと思って混乱に陥った《張魯伝》。曹操軍の殿軍を努めていた劉曄は、この騒動に乗ずれば勝利できると考え、曹操に攻撃を勧めた《劉曄伝》。そこで曹操軍は引き返して張衛軍を攻撃し、敵将楊任を斬った《武帝紀》。張衛は逃走したが、追いつめられて降服し《武帝紀・張魯伝》、のち斬首された《後漢書劉焉伝》。 |
張衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 08:58 UTC 版)
張衛 | |
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後漢 昭義将軍 |
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出生 | 生年不詳 豫州沛国豊県 |
拼音 | Zhāng Wèi |
字 | 公則 |
主君 | 張魯→曹操 |
張 衛(ちょう えい、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。字は公則。豫州沛国豊県の人。父は張衡。母は盧氏。兄は張魯。弟は張傀。甥は張富・他数名(張魯の10人の子)。
生涯
建安20年(215年)、曹操が漢中へ進攻してくると張魯が降伏しようとしたが、張衛は承知せず、将軍の楊昂・楊任と数万の兵を率いて陽安関を守備した。一時は曹操軍を撃退したが、曹操が高祚らが率いる別働隊を派遣して夜襲させたため、楊任が戦死し、張衛も敗走した(陽平関の戦い)。
それでも張衛が抵抗を続けていると、野生の鹿数千頭が張衛の陣営を走り壊す事故(曹操軍の計略によるものかどうかは不明)が発生した。さらに、偶然発生した高祚との夜間の遭遇戦では、高祚が味方を呼ぶために打ち鳴らした軍鼓の音を、張衛は奇襲の合図と勘違いしてしまう。これらのことにより、ついに張衛は戦意を喪失して降伏した。
『天師世家』は、張衛の字を公則とする。曹操に仕えて昭義将軍に任ぜられたと記載されている。
物語中の張衛
小説『三国志演義』では、最後まで兄に逆らって曹操への抵抗を続け、勇将の許褚との一騎討ちに敗れ戦死している。
参考文献
張衛(ちょうえい)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:00 UTC 版)
「三国志 (北方謙三)」の記事における「張衛(ちょうえい)」の解説
張魯の弟で、五斗米道軍を率いる。宗教にはあまり帰依しておらず、教義を利用し益州に王道楽土を築く野心を抱く。しかしその野心に較べ行動が伴わない甘さがあり、いつまでも夢を捨てきれずに現実と立場が乖離していく。蜀が魏五十万の大軍を撤退させたという事実に感銘を受け、義勇軍を率い叛乱を起こすが、既に乱世の終わった世界ではただの賊徒としか見なされなかった。最終的に呉の陸遜を頼ろうとするも朱桓の軍勢により討ち取られるという悲壮な最後を遂げる。
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