張蚝を捕らえる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 06:13 UTC 版)
357年6月、苻堅が即位すると驍騎将軍に任じられた。 9月、張平が并州を拠点にして前秦に反旗を翻した。358年2月、苻堅が自ら兵を率いて討伐に乗り出すと、鄧羌はその先鋒となり、騎兵五千を率いて汾水に進駐した。3月、汾水近くの銅川に沿って築かれた銅壁まで軍を進めると、張平は全軍を挙げて迎撃に出た。 鄧羌軍はこれを散々に撃ち破り、張平の養子であり勇猛をもって知られた張蚝を生け捕って苻堅の下へと送った。敗れた上に息子が捕らえられた張平は恐れおののいて、苻堅に降伏を願い出た。 苻堅はこれを受け入れ、反乱を起こした罪を許した上に、彼を右将軍に任命した。また、張蚝を武賁中郎将・広武将軍に任命し、張平配下の三千戸余りを長安に移住させた。苻堅は、鄧羌の功績を絶賛すると共に、張蚝の武勇にも大いに期待をかけていた。そのため、苻堅は鄧羌と張蚝を常に傍近くに控えさせるようになり、国の人は彼らを「万人の敵(一万の兵に匹敵する程の強さ)」と称賛した。 359年3月、前秦の平羌護軍高離は略陽において反乱を起こした。苻堅は永安公苻侯に鎮圧を命じたが、苻侯は果たせぬままに亡くなった。4月、鄧羌は秦州刺史啖鉄を討伐に赴くと、高離を破って乱を平定した。
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