張茂の時代
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321年2月、張茂は八十余りの城壁が有り、高さ九仞にも及ぶ霊鈞台を建造を始めた。武陵郡出身の閻曾は、夜に門を叩いて「私は武公(張軌)の遣いとして来ました。武公は、どうして民衆を苦しめてまで台を築くのか、と嘆いております」と叫んだ。姑臧令辛岩は、閻曾が妄言で惑わしているとして、誅殺するよう求めた。だが、張茂は「庶民が労役により苦しんでいるのは事実である。閻曾は先君の命を言伝に来ているのだから、どうして妖言などと断じてよいものか」と述べた。また、太府主簿馬魴は「今、世の災禍は平定されておらず、我らにできるのは道徳を崇め尊ぶことのみです。亭台や楼閣を建造・装飾して、労役を盛んにさせるべきではありません。またここ数年、諸々の政務・事務は日を追うごとに贅沢になり、毎度の如く役所を建造し、容易く常規の制度が破られるようになりました。これは、士人・百姓が明公(張茂)に望んでいるものではありません」と諫めた。張茂はこれを聞くと「我の過ちであるな」と述べ、命を下して労役を中止させた。 322年12月、張茂は韓璞を隴西・南安の地に派遣し、攻略に当たらせた。韓璞はこれらを平定すると、秦州を設置して帰還した。 323年8月、前趙の皇帝劉曜が隴上から西進して涼州へ襲来した。劉曜は将軍劉咸を冀城に派遣して韓璞を攻撃させ、呼延寔を桑壁に派遣して寧羌護軍陰鑒を攻撃させた。さらに、自らは28万の兵を率いて河上に駐軍し、百里余りに及ぶ陣を築いた。前趙軍の戦鼓が鳴り響いて大地を揺らすと、張茂が配置した黄河沿いの守備兵は恐れ慄いて潰走してしまった。臨洮郡出身の翟楷・石琮らは県令を追放して県城ごと劉曜に呼応したので、河西は大いに震撼した。 参軍馬岌は張茂に自ら征伐に赴くよう勧めると、長史氾禕は怒り「亡国の人がまた大事に干渉して国を乱そうとしております。馬岌を斬り捨てて民百姓を安んじるべきです」と言った。これに馬岌は「氾公は書生に過ぎず、先人の真似をすることしか能がありません。目先の事に囚われて他人を批評し告発しているに過ぎず、国家の大計を考えておりません。周辺の情勢は年々慌ただしくなり、今大賊が到来しました。ですが、遠方の将帥はこれに呼応しておらず、遠近の人心は全て我らの下にあります。形勢を決するには今こそ自ら打って出るときなのです。信義・勇猛を示し、秦隴の人々の希望に沿わねばなりません」と反論した。張茂は「馬生の言に理がある」と述べ、自ら出兵して石頭に拠った。 この時、張茂は参軍陳珍に向かって「劉曜は勢いに乗り三秦の精鋭を掌握し、長年にわたり軍を整備し士卒は多くの経験を積んでいる。精鋭騎兵で南安を攻略し、河外の地を席巻しており、必ずや長躯して姑臧にも到来するであろう。どう対処すべきものか」と尋ねた。陳珍は「劉曜は多くを従えておりますが、天下に恩徳が行き届いておらず、その上関東の地は彼と心が通っておらず、内患は除かれておりません。精鋭は非常に少なく、多くは氐・羌の烏合の衆であります。関東一帯の難を捨て置くことが出来無いため、隴上の兵力を増やし、いたずらに時間を使って我らと兵力の高低を比べているに過ぎません。もし二十日経過しても奴らが退かなければ、この陳珍が弱卒数千をもって明公の為に捕えて差し上げます」と答えた。張茂は大いに喜び、陳珍を平虜将軍に任じ、歩騎千八百を率いて韓璞の救援に向かわせた。陳珍は氐・羌の衆を徴発して劉曜に対峙すると、これを撃破して南安を奪還した。張茂は大いに彼を称賛し、折衝将軍に任命した。 その後、張茂は劉曜へ使者を送り、自ら劉曜の臣下と称して馬・牛・羊や珍宝を献上した。これにより、劉曜は軍を撤退させ、張茂を侍中・都督涼南北秦梁益巴漢隴右西域雑夷匈奴諸軍事・太師・涼州牧に任じた。さらに涼王に封じ、九錫を与えた。 同年秋、張茂はまた姑臧城において大いに土木工事を行い、霊鈞台を建造を始めた。別駕呉紹はこれを諌めて「推察しますに、今これだけ城台の建築をなさっているのは、以前劉曜の侵略があったからでしょう。しかし、愚行いたしますところ、恩徳を施して人心を得なければ、いくら高台に居を構えたとしても、配下に疑念が生まれます。これにより、士民の心を失い、自国の怯弱さも露わとなり、敵に陰謀を企てる隙を与えることになります。これでは天子(東晋)を援けて諸侯に覇を唱えることはできません。どうか労役を取りやめて下々の民を休息させられますように。更に衆を動かすことを民衆は望んでおりません」と述べた。だが、張茂は「亡兄が思いがけずに命を失われたのは、忠臣義士が節を尽くさなかったからとでも言うのか。禍というのは不意に起きるものであり、智勇を備えていてもどうにもならぬ時がある。故に、王公たるもの危険に大して備えを設けるものであり、勇者であっても警備は厳重にするのが古の習わしであるぞ。国家が未だ騒乱の中にあるというのに、泰平の世の理を持ち出してこのような乱世を語ってはならぬ」と反論すると、呉紹はこれに対して答えることができず、工事は継続された。 涼州の豪族賈模は張寔の妻の弟であり、その権勢は西土を圧倒する程であった。これより以前、「手莫頭、図涼州」という民謡が流行った。張茂はこの民謡が賈模の事を言っていると考え、彼を招き寄せると誅殺した。これにより、権勢を持つ豪族は声を潜めて隠居するようになり、張茂の威厳は涼州に広く行き渡るようになった。
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