張茂の時代とは? わかりやすく解説

張茂の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 04:16 UTC 版)

張茂」の記事における「張茂の時代」の解説

321年2月張茂八十余り城壁有り、高さ九仞にも及ぶ霊鈞台を建造始めた武陵郡出身の閻曾は、夜に門を叩いて「私は武公張軌)の遣いとして来ました。武公は、どうして民衆苦しめてまで台を築くのか、と嘆いております」と叫んだ姑臧令辛岩は、閻曾が妄言惑わしているとして、誅殺するよう求めた。だが、張茂は「庶民労役により苦しんでいるのは事実である。閻曾は先君の命を言伝来ているのだから、どうして妖言などと断じてよいものか」と述べたまた、太府主簿馬魴は「今、世の災禍平定されておらず、我らにできるのは道徳崇め尊ぶことのみです。亭台や楼閣建造装飾して労役盛んにさせるべきではありません。またここ数年諸々政務事務日を追うごとに贅沢になり、毎度如く役所建造し容易く常規制度破られるようになりました。これは、士人百姓明公張茂)に望んでいるものではありません」と諫めた張茂はこれを聞くと「我の過ちであるな」と述べ、命を下して労役中止させた。 322年12月張茂韓璞隴西南安の地に派遣し攻略に当たらせた。韓璞はこれらを平定すると、秦州設置して帰還した323年8月前趙皇帝劉曜が隴上から西進し涼州襲来した劉曜将軍劉咸を冀城に派遣して韓璞攻撃させ、呼延寔壁に派遣して寧羌護軍陰鑒を攻撃させた。さらに、自らは28の兵を率いて河上駐軍し、百里余りに及ぶ陣を築いた前趙軍の戦鼓鳴り響いて大地揺らすと、張茂配置した黄河沿いの守備兵恐れ慄いて潰走してしまった。臨洮郡出身の翟石琮らは県令追放して県城ごと劉曜呼応したので、河西大い震撼した。 参軍馬岌張茂に自ら征伐赴くよう勧めると、長史氾禕は怒り亡国の人がまた大事に干渉して国を乱そうとしております馬岌斬り捨てて民百姓安んじるべきです」と言った。これに馬岌は「氾公は書生過ぎず先人真似をすることしか能がありません。目先の事に囚われて他人批評し告発しているに過ぎず国家大計考えておりません。周辺情勢年々慌ただしくなり、今大賊到来しました。ですが、遠方将帥はこれに呼応しておらず、遠近人心全て我らの下にあります形勢決するには今こそ自ら打って出るときなのです信義勇猛示し、秦隴の人々希望に沿わねばなりません」と反論した張茂は「馬生の言に理がある」と述べ、自ら出兵して石頭に拠った。 この時、張茂参軍珍に向かって劉曜勢い乗り三秦の精鋭掌握し長年にわたり軍を整備し士卒多く経験積んでいる。精鋭騎兵南安攻略し、河外の地を席巻しており、必ずや長躯して姑臧にも到来するであろう。どう対処すべきものか」と尋ねた。陳珍は「劉曜多く従えておりますが、天下恩徳が行届いておらず、その上関東の地は彼と心が通っておらず、内患除かれておりません。精鋭は非常に少なく多くは氐・羌の烏合の衆であります関東一帯の難を捨て置くことが出来無いため、隴上の兵力増やしいたずらに時間使って我ら兵力高低比べているに過ぎません。もし二十日経過して奴らが退かなければ、この陳珍が弱卒数千をもって明公為に捕えて差し上げます」と答えた張茂大い喜び、陳珍を平将軍任じ、歩騎千八百率いて韓璞救援に向かわせた。陳珍は氐・羌の衆を徴発して劉曜対峙すると、これを撃破し南安奪還した張茂大いに彼を称賛し折衝将軍任命したその後張茂劉曜使者送り、自ら劉曜臣下称して馬・牛・羊や珍宝献上した。これにより、劉曜は軍を撤退させ、張茂侍中都督南北益巴漢隴右西域雑夷匈奴諸軍事・太師涼州牧に任じた。さらに涼王に封じ九錫与えた同年秋、張茂はまた姑臧城において大い土木工事行い、霊鈞台を建造始めた別駕呉紹はこれを諌めて推察しますに、今これだけ城台の建築なさっているのは、以前劉曜侵略あったかでしょう。しかし、愚行いたしますところ、恩徳施して人心を得なければ、いくら高台に居を構えたとしても、配下疑念生まれます。これにより、士民の心を失い自国怯弱さも露わとなり、敵に陰謀企てる隙を与えることになりますこれでは天子東晋)を援け諸侯に覇を唱えることはできません。どうか労役取りやめて下々の民を休息させられますように。更に衆を動かすことを民衆望んでおりません」と述べた。だが、張茂は「亡兄思いがけずに命を失われたのは、忠臣義士が節を尽くさなかったからとでも言うのか。禍というのは不意に起きるものであり、智勇備えていてもどうにもならぬ時がある。故に王公たるもの危険に大し備え設けるものであり、勇者であっても警備厳重にするのが古の習わしであるぞ。国家未だ騒乱中にあるというのに、泰平世の理を持ち出してこのような乱世語ってはならぬ」と反論すると、呉紹はこれに対して答えることができず、工事継続された。 涼州豪族賈模張寔の妻の弟であり、その権勢西土圧倒するであった。これより以前、「手頭、図涼州」という民謡流行った張茂はこの民謡賈模の事を言っていると考え、彼を招き寄せる誅殺した。これにより、権勢を持つ豪族声を潜め隠居するようになり、張茂威厳涼州広く行き渡るようになった

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