張茂を継ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:48 UTC 版)
もともと西晋愍帝からの使者であった黄門侍郎史淑は姑臧に留まっていたので、左長史氾禕・右長史馬謨らは史淑へ、張駿に継位させるよう遠回しに要請した。これにより、張駿は使持節・大都督・大将軍・涼州牧・領護羌校尉に任じられ、西平公に任じられた。領内に大赦を下し、左右前後に四率官を置き、南宮を修繕した。前趙皇帝劉曜もまた使者を派遣して、張駿を上大将軍・涼州牧・涼王に任じた。前涼は先代より前趙に従属してはいたものの、引き続き西晋の元号である建興12年(西晋自体は建興5年に崩壊している)を称し、さらに東晋とも関係を保っていた。 12月、枹罕を統治していた辛晏は張駿に従うのを拒み、枹罕ごと反旗を翻した。張駿は群臣を閑豫堂に集めて議論を交わし、武威郡太守竇濤らを派遣して辛晏を討伐させようとした。従事劉慶はこれを諌めて「覇王というものは、喜怒で行動を興さず、乾没で勝を取らず、必ずや天時・人事の両方を得てから起ち上がるものです。辛晏父子は残忍・凶狂であり、その敗亡は必至であるからこれを待つべきです。どうして飢饉の年に大軍を挙げ、猛寒の時期に城を攻めるというのですか。昔、周武(周の武王)は武器を納めて殷の滅びを待ち、曹公(曹操)は時間を掛けて袁氏を自斃させました。殿下がここで兵を戻すことを一体誰が恥じとしましょうか」と述べると、張駿はこの言に従った。 同月、参軍王騭に聘物を与えて前趙へ派遣し、修好を深めた。 325年1月、親耕藉田(勧農・豊饒を祈願する為に天子が行う農耕儀礼)を自ら行った。2月、東晋の元帝が崩じたとの報が届くと、張駿は3日に渡って哀悼した。この時期、黄龍が揟次の嘉泉より出現したとの噂が流れると、右長史氾禕は張駿へ「建興の年を考えますところ、これは少帝(愍帝)より始まった号です。帝は既に凶事により最期を迎えられており、これを改めるべきです。朝廷は遥か江南にあって往来が隔絶されております。今、龍の出現があり、これを吉兆として改号をすべきかと存じます」と勧めたが、張駿は従わなかった。 同月、辛晏が枹罕ごと降伏すると、張駿は護軍に任じた。これにより、再び河南の地は張駿の支配下となった。
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