張平の養子とは? わかりやすく解説

張平の養子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/14 23:13 UTC 版)

張蚝」の記事における「張平の養子」の解説

若い頃から身体能力優れ、牛を引いて走るほどの筋力と、城壁飛び越えることができるほどの敏捷性持ち合わせていた。 并州軍閥である張平よりその才能愛され、やがて養子として迎え入れられてその姓を弓から張へ改めた。 ある時を境に張蚝張平の妾と密通するようになっていたが、張平露見してしまい、張平から大い責められることとなった張蚝は自らの行い大い恥じ自分の手性器切除することで誠意示した。これにより彼は宦官となった張平は元々後趙并州刺史だったが、冉閔の乱に乗じて離反し新興雁門西河太原上党上郡の地を領有し半独立体制築いていた。 358年2月前秦苻堅が自ら兵を率いて張平討伐乗り出し、汾上まで進出した張平の命により、張蚝出撃してこれを迎え撃ち前鋒都督鄧羌10日間に渡って攻防繰り広げ互いに一歩も譲らなかった。3月苻堅汾水近く壁まで軍を進めると、張平全軍挙げて決戦挑んだ張蚝単身で馬に跨って出撃すると、大声張り上げながら四・五回にわたって前秦の兵陣へ突撃し大い荒らし回った苻堅張蚝武勇惚れ込み諸将生け捕りにするよう命じ成功した者には褒賞約束した。これを受け、鷹揚将軍呂光張蚝に斬りかかって傷を負わせ、その隙に鄧羌が彼を取り押さえた。こうして張蚝捕縛されると、苻堅の下へ送られた。張平張蚝囚われたと聞いて戦意喪失し、苻堅降伏した張蚝苻堅より抜擢を受け、虎賁中郎将任じられた。 養父張平もまた同じく前秦仕えることとなったが、彼は臣従離反繰り返していたことから361年苻堅討伐された。その後張蚝変わらず前秦仕えた苻堅張蚝武勇大い期待掛けており、その寵愛ぶりには目を見張るものがあったという。彼は前秦随一猛将といわれた鄧羌と共に、常に苻堅傍近くに仕えることを許され、国の人は彼らを「万人の敵(一万の兵に匹敵する程の強さ)」と称賛した。 後に広武将軍昇進した

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