張虔威とは? わかりやすく解説

張虔威

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 03:52 UTC 版)

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張 虔威(ちょう けんい、生没年不詳)は、政治家は元敬。『北史』では名を乾威と書かれる。本貫清河郡東武城県

経歴

北斉北徐州刺史張晏之の子として生まれた。聡明で群書に通じ、伯父の張暠之に「虔威はわが家の千里の駒なり」と評された。12歳のとき、北徐州主簿に任ぜられた。18歳のときに太尉中兵参軍となり、後に太常丞に累進した。北斉が滅ぶと、北周に仕えて宣納中士となった。

楊堅が北周の政権を握ると、虔威は召し出されて相府典籤となった。隋が建国されると、晋王楊広の下で并州に赴任し、刑獄参軍となった。楊広は虔威の才能を愛して、河内の張衡とともに礼遇し、晋王府では「二張」と称された。楊広が太子となると、虔威は員外散騎侍郎・太子内舎人に転じた。

煬帝(楊広)が即位すると、虔威は内史舎人・儀同三司に任ぜられた。まもなく開府儀同三司の位を加えられた。謁者大夫に任ぜられ、江都への巡幸に従い、本官のまま摂江都賛治をつとめ、幹理と称された。ときに煬帝は巡幸を重ね、民衆は疲弊していたので、虔威は上奏して諫めた。煬帝は喜ばず、虔威をうとんじるようになった。しばらくして虔威は在官のまま死去した。

家族

子に張爽があり、蘭陵県令となった。

張虔威の弟の張虔雄もまた知られ、秦王楊俊秦州総管となると、その下で法曹参軍に選ばれた。後に寿春・陽城の県令を歴任した。

伝記資料

  • 隋書』巻66 列伝第31
  • 『北史』巻43 列伝第31




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