楊昂
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張魯の将。 おそらく楊帛と同人である。紙に書かれた名を写し間違えたものと考えられる。 建安十八年(二一三)正月、馬超が蛮兵を率いて涼州諸郡を攻撃しとき、張魯は楊昂を派遣して彼に助勢させた。郡県のほとんどが呼応し、ただ冀城だけが残っていた。八月、涼州刺史韋康は楊阜の諫めを聞き入れず、馬超に使者をやって降服した。楊昂は韋康を漢陽太守とともに殺害した《楊阜伝》。 二十年七月、曹操の大軍が陽平関に押し寄せると、張魯の弟張衛は独断で兵を出し、楊昂とともに陽平関を守った。曹操軍はこれを攻撃したが多くの死傷者を出し、食糧も底を突いたので引き揚げようとしたが、高祚らの部隊が誤って張衛陣営に迷い込み、張衛は敵の奇襲だと思って敗走した《武帝紀・張魯伝》。 【参照】韋康 / 高祚 / 曹操 / 張衛 / 張魯 / 馬超 / 楊阜 / 漢陽郡 / 冀県 / 陽平関 / 涼州 / 刺史 / 太守 |
楊昂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 08:59 UTC 版)
楊 昂(よう こう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。
正史の事跡
姓名 | 楊昂 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 大将または将軍 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 張魯 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
張魯配下。建安17年(212年)、馬超が涼州の隴上で再び蜂起した際に、楊昂は張魯の命により馬超を支援した。この年の8月に韋康が馬超に降伏すると、馬超は楊昂に命じて韋康を殺害させている。その後、楊昂は張魯の下へ帰還した。
建安20年(215年)7月、曹操が張魯討伐のために陽安関を攻撃してくると、楊昂は張衛・楊任と共に関所を守備し、一時は曹操軍を撃退した。しかし、曹操が高祚らが率いる別働隊に命じて夜襲させたため、張魯軍が大敗し楊任は戦死した。その後の楊昂の行方は定かではない。
物語中の楊昂
小説『三国志演義』でも登場するが、ここでは無能な将軍として描かれている。楊任と共に陽平関を守るが、楊任の諫止も聞かずに無謀な出撃を行ない、曹操軍に撃破される。最後は、張郃に討ち取られてしまう。
参考文献
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