張裔
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許靖が蜀の劉璋に仕えたとき「張裔は実務の才能があって機転が効く。北方の鍾繇のような人物だ」と言ったので、孝廉に推挙されて魚復県長となり、のち州従事・帳下司馬に任じられた。張飛の益州侵攻を徳陽の陌下で防いだが敗北する。降伏の使者として劉備と会見し、劉璋主従の安全を約束させて帰還したので劉璋は降伏した。巴郡太守・司金中郎将に任命され、農機具や武器の鍛造を担当した。 益州の豪族雍闓は恩徳と信義によって南方で知られていた。その支持者たちが益州太守を殺害すると張裔が後任となったが、雍闓は服従せず、張裔を捕まえて身柄を呉に送った。劉禅が即位したとき諸葛亮は呉と同盟したが、同時に張裔の身柄引き渡しを求めた。孫権は張裔と面識がなかったので彼を引見してからかった。孫権「蜀の卓氏の女は司馬相如と駆け落ちしたが、それが蜀の風習なのか」、張裔「朱買臣の出世が待ちきれずに離婚した呉の女よりはましでしょう」。劉備に嫁いだ孫権の妹が呉に逃亡したことを言ったのである。孫権は機嫌良く談笑して張裔を立派だと考えた。張裔は退出して愚者のふりをすべきだったと後悔し、船に乗ると昼夜兼行して帰国した。孫権は彼を追跡させたが追い付けなかった。 蜀に帰還すると丞相諸葛亮は彼を参軍とし、益州治中従事を兼ねさせた。諸葛亮が漢中に駐留するようになると射声校尉・留府長史に進む。のち輔漢将軍を加官された。彼は若いころ楊恭と親しかったが、彼が若死にしたので数歳の遺児を引き取って養育し、実母に対するように楊恭の母に仕えた。楊恭の子が成長すると妻を世話してやり、田地や邸宅を買い与えている。建興八年(二三〇)に亡くなった。 【参照】許靖 / 司馬相如 / 朱買臣 / 諸葛亮 / 鍾繇 / 孫夫人(孫権の妹) / 孫権 / 卓氏 / 張飛 / 楊恭 / 雍闓 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 益州郡 / 漢中郡 / 魚復県 / 呉 / 蜀 / 蜀郡 / 成都県 / 徳陽県 / 巴郡 / 陌下 / 県長 / 孝廉 / 参軍 / 司金中郎将 / 射声校尉 / 従事 / 太守 / 治中従事 / 帳下司馬 / 輔漢将軍 / 留府長史 |
張衛
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(?~215) |
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張魯の弟《張魯伝》。張魯には張衛のほか、劉璋に殺された弟がいる《張魯伝》。 建安二十年(二一五)、曹操が軍勢を催して陽平関に攻め寄せたとき、兄張魯は使者を出して降服の意志を示したが、張衛は独断で軍勢を率いて関所を固守し、楊昂らとともに山々に防衛線を張った。陽平山頂にも陣営を連ねており、これを攻撃した曹操軍は多くの死傷者を出した。曹操はすっかり意気阻喪し、撤退を決意、夏侯惇・許褚を使者として山上の軍勢を引き揚げさせた《武帝紀・張魯伝》。 張衛らは曹操軍が撤退しようとしているのを見て警戒を解いた《武帝紀》。夜中、数千頭の大鹿の群れが飛び込んできたので、張衛軍は胆を冷やした《張魯伝》。曹操軍本営の先鋒解〓・高祚も引き揚げようとしたが、夜中のことで、知らず知らず張衛の陣営に迷い込んでしまった《武帝紀・張魯伝》。 『武帝紀』では、張衛が警戒を解いたのを見て、曹操が高祚らを山伝いに進めて夜襲をかけたとしている。しかし高祚が陣中に迷い込んだため張衛軍が自壊したとするのは董昭・楊曁らの上奏文であり、事実に反して先帝の名誉を損ねることはあり得ない。董昭らの説を採用すべきと考えられる。大鹿の群れは山中の高祚軍に驚いて逃げ出してきたものだろう。敵伏兵の接近を暗示している《孫子》。 高祚らは手勢が少なく、軍鼓を激しく打ち鳴らして味方を呼んだため、張衛軍は夜襲だと思って混乱に陥った《張魯伝》。曹操軍の殿軍を努めていた劉曄は、この騒動に乗ずれば勝利できると考え、曹操に攻撃を勧めた《劉曄伝》。そこで曹操軍は引き返して張衛軍を攻撃し、敵将楊任を斬った《武帝紀》。張衛は逃走したが、追いつめられて降服し《武帝紀・張魯伝》、のち斬首された《後漢書劉焉伝》。 |
趙叡
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(?~200) |
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建安五年(二〇〇)十月、袁紹は官渡において曹操軍と対峙していたが、淳于瓊らの五将に軍勢一万人を授け、北方からの輜重車を護送させることにした。淳于瓊が北方へ四十里行った烏巣で宿営をしたところ、曹操が歩騎五千人を率いて夜襲をかけてきた。趙叡はこの戦いで眭元進・韓莒子・呂威璜とともに曹操軍に斬られている《武帝紀・後漢書袁紹伝》。 |
趙穎
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