蜀郡とは? わかりやすく解説

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蜀郡Shu

ショク

領城11
戸数300,452
人口1,350,476

「三蜀」の一つ前漢文帝時代に文翁という者が太守となり、湔江を開削して郫・繁県の田千七百頃を灌漑し、学問所設立して官吏の子弟を選んで学問授け成績優秀な張叔ら十八人を東方学者預けて七経を学ばせ、彼らが帰国する教育係とした。こうして蜀郡の学問は斉・地方匹敵するまで盛んになった。

太守王商 / 許靖 / 法正 / 楊洪 / 王連 / 楊洪 / 劉敏

【郡吏】甘寧

【郡人】禎 /

【領城】成都 / 郫 / 江原 / 繁 / 広都 / 臨邛 / 湔氐道 / 汶江道 / 八陵蚕陵) / 広柔 / 緜虒道


蜀郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/24 06:32 UTC 版)

蜀郡(しょく-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代から唐代にかけて、現在の四川省成都市を中心とした地域に設置された。

概要

紀元前285年(秦の昭襄王22年)、蜀侯綰が反乱を疑われて処刑されると、蜀郡が置かれた[1]。郡治は成都に置かれた。

前漢のとき、蜀郡は益州に属し、成都・・広都・臨邛・青衣・江原厳道綿虒・旄牛・徙・湔氐道・汶江・広柔・蚕陵の15県を管轄した。前漢末に26万8279戸、124万5929人があった[2]

赤眉の乱の混乱の中、公孫述はこの地に割拠し、建武元年(25年)には皇帝を号し、国号を「成家中国語版」とした。しかし、光武帝の命を受けた来歙らによって滅ぼされた。

後漢のとき、蜀郡は成都・郫・繁・広都・臨邛・江原・綿虒・湔氐道・汶江・広柔・蚕陵の11県を管轄した[3]

212年から214年にかけて、劉備]がこの地に侵攻、劉璋から領土を奪った(入蜀)。220年曹丕が後漢を廃し、を建国すると、221年に劉備は対抗して皇帝を称し、蜀漢を建国した。しかし、263年、魏の侵攻を受け滅亡した(蜀漢の滅亡)。

太康年間、西晋により蜀郡は成都国と改められた。後に蜀郡にもどされた[4]。蜀郡は成都・広都・繁・江原・臨邛・郫の6県を管轄した[5]南朝宋のとき、蜀郡は成都・郫・牛鞞・繁・永昌の5県を管轄した[4]南朝斉のとき、蜀郡は成都・郫・牛鞞・繁・永昌の5県を管轄した[6]

582年開皇2年)、により西南道行台省が置かれた。583年(開皇3年)、総管府が置かれた。605年大業元年)に総管府が廃止された。蜀郡は成都・双流・新津・晋原・清城・九隴・綿竹・郫・玄武・雒・陽安・平泉・金淵の13県を管轄した[7]

618年武徳元年)、唐により蜀郡は益州と改められ、総管府が置かれた。742年天宝元年)、益州は蜀郡と改称された。757年至徳2載)、蜀郡は成都府と改められ、蜀郡の呼称は姿を消した[8]

脚注

  1. ^ 華陽国志』蜀志
  2. ^ 班固漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、354-356頁。
  3. ^ 後漢書』郡国志五
  4. ^ a b 宋書』州郡志四
  5. ^ 晋書』地理志上
  6. ^ 南斉書』州郡志下
  7. ^ 隋書』地理志上
  8. ^ 旧唐書』地理志四


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