せきび‐の‐らん【赤眉の乱】
新末後漢初
赤眉の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 00:48 UTC 版)
ここに至って、各地に農民反乱が続出する。その嚆矢となったのが琅邪郡海曲県(現在の山東省日照市東港区)の呂母と呼ばれる老婆である。彼女の息子は県庁に勤めていたが、些細なことで県宰(県長官)により捕らえられて死刑に処された。17年、これを恨んだ呂母は金を使って人を集めて、海上にて集結し県宰を襲って殺した。本懐を遂げた呂母は没するが、一度集められた雑軍たちは解散するわけにはいかず、樊崇といった者たちを首領として山東各地の流民たちを吸収して赤眉軍となる。この集団は敵と味方の区別のために眉毛に赤い染料を塗ったことから、この名前がある。 一方、呂母の乱の少し後に王匡・王鳳と言ったものたちが緑林山(現在の湖北省荊門市京山市)を根拠として農民を吸収して反乱軍を指揮した。こちらは緑林軍と呼ばれる。しかしこの軍の内部で疫病が流行したために一つの所にいることが出来なくなり、21年には分裂し、片方は南下して下江軍と呼ばれるようになり、もう片方は北上して南陽に入った。こちらは新市軍と呼ばれるようになる。新市軍は南陽の豪族であり、宗族でもある劉氏と手を結び、再び勢力を盛り返した。この劉氏の中に劉秀(後の光武帝)と劉秀の兄の劉縯がいる。分裂した緑林軍は再び合流して、23年に劉氏の中の劉玄を擁立し、元号を新しくして更始とし、劉玄は皇帝となった。これ以後の劉玄は更始帝と呼ばれる。 王莽は当然これらの反乱軍に対して討伐軍を送る。しかし22年に廉丹と王匡(緑林軍の王匡とは別人)を将軍とする討伐軍は、赤眉軍に敗れた。赤眉軍が上述の眉に赤を塗ったのはこの戦いからである。更始帝軍は南陽の中心都市である宛を包囲し、それに対する王莽の討伐軍は宛の近くの昆陽を包囲するが、劉秀の活躍により打ち破られた(昆陽の戦い)。この後の王莽は相次ぐ敗戦に錯乱してしまったようで、「昔から大きな災いの時には大きな哭き声で呪いをしたものだ。天に向かって哭いて救いを求めるのが良い。」などといった進言を大真面目に取り上げて、人数を集めて哭き声が大きかった者は官僚として取り立てると布告し、それで取り立てられた者が5000人になったと言う。この有様に全国に反王莽の群雄が起こり、王莽は長安に乱入した群盗により殺された。王氏の一族も多くは滅ぼされたが、王莽と不仲であった従兄弟の王閎や王丹は降伏して助命されている。
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