五原郡とは? わかりやすく解説

五原郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/16 09:11 UTC 版)

五原郡(ごげん-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の内モンゴル自治区バヤンノール市および包頭市一帯に設置された。

概要

の九原郡を前身とした。

紀元前127年前漢元朔2年)、五原郡と改称された[1]。五原郡は朔方刺史部に属し、九原・固陵・五原・臨沃・文国・河陰・蒱沢・南輿・武都・宜梁・曼柏・成宜・稒陽・莫䵣・西安陽・河目の16県を管轄した。王莽のとき、獲降郡と改称された[2]

29年後漢建武5年)、盧芳が九原で天子を自称し、五原・朔方雲中定襄雁門の5郡を占拠した[3]37年(建武13年)、盧芳が匈奴に亡命した。44年(建武20年)、五原郡が廃止され、官吏や郡民を河東郡に移した。50年(建武26年)、南匈奴が単于の子を人質として洛陽に入朝させると、五原郡の郡民をもとの地にもどさせた[4]。五原郡は并州に属し、九原・五原・臨沃・文国・河陰・武都・宜梁・曼柏・成宜・西安陽の10県を管轄した[5]

215年後漢建安20年)、曹操が雲中・定襄・五原・朔方の4郡を県と改め、4県を管轄する新興郡を立てた[6]

恵帝のとき、新興郡は晋昌郡と改称された。304年永興元年)、劉淵が漢王を称して自立すると、并州全域を漢(前趙)が掌握した。劉曜が都を長安に移すと、平陽以東の地は石勒に掌握され、朔方に朔州が置かれた[7]

北魏のとき、五原郡の故地に懐朔鎮が置かれ、後に朔州と改められた[8]

585年開皇5年)、により豊州が置かれた。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、豊州は五原郡と改称された。九原・永豊・安化の3県を管轄した[9]

618年武徳元年)、唐が郡制を廃止すると、五原郡は豊州と改められた。いっぽう隋の塩川郡を前身とする塩州があり、この塩州が742年天宝元年)に五原郡と改称された。758年乾元元年)、五原郡は塩州と改称され、五原郡の呼称は姿を消した[10]

脚注

  1. ^ 漢書』武帝紀
  2. ^ 『漢書』地理志下
  3. ^ 後漢書』光武帝紀上
  4. ^ 『後漢書』光武帝紀下
  5. ^ 『後漢書』郡国志五
  6. ^ 三国志』魏書武帝紀
  7. ^ 『晋書』地理志上
  8. ^ 魏書』地形志二上
  9. ^ 隋書』地理志上
  10. ^ 旧唐書』地理志一




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