赤眉軍・緑林軍
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王莽が禅譲により新朝を開くと、周代の政治を理想として現実を無視した政策を実施したため、民心は離れ、国内各地で叛乱が発生し、匈奴・西羌・高句麗等周辺諸国・諸族の反感を買った。 14年(天鳳元年)、山東の琅邪郡で呂母なる老女が県令に殺害された息子の仇を撃つために私財を投じて数千の徒党を集めて、反乱を起こした。呂母は県令を殺害した後に死去するが、いったん集まった軍勢は法が過酷であり賦税が重いことを理由に解散せず、18年(天鳳5年)、同郷の樊崇が兵を挙げると合流し一大勢力となった。この軍は敵味方の識別に眉を赤く塗ったので赤眉軍と称されている。政府軍である太師軍(太師王匡)と更始軍(更始将軍廉丹)は強引な兵糧徴収などで民心を失い、世間では「寧ろ逢うなら赤眉軍、太師軍には逢うな、太師ならまだしも更始軍であれば殺される」 と囃される有り様であった。また同時期に王匡が貧民を集結し緑林山を拠点に叛乱を起こしている(緑林軍)。 22年(地皇3年)冬、劉秀の兄の劉縯が挙兵する。最初は思うように兵が集まらずに苦しんでいたが、慎重な性格と評判であった劉秀が参加すると、劉秀の判断を信じ叛乱に参加する者が増えるようになった。この反乱軍は舂陵軍と称されている。 挙兵時には劉秀は貧しく馬を買うことができず牛に乗っており、緑林軍に合流してから朝廷軍より捕獲した馬に乗るようになったという逸話がある。 まもなく緑林軍は疫病が蔓延したために、南陽を拠点として新市軍と、南郡を拠点とする下江軍に分裂した。新市軍は南陽の豪族の平林軍(この軍には劉秀の本家筋に当たる劉玄が加わっていた)や劉縯の舂陵軍と連合した。後にこの連合軍が下江軍を再度吸収、劉縯が淯陽で官軍を打ち破った。連合軍が南陽宛城を包囲した後、新皇帝を擁立すべく新市・平林軍の部将らが協議を行った。劉縯擁立の動きもあったが、実績のある有能な人物を擁立すると自らの勢力が弱体化することを恐れた新市・平林軍の部将らはこれを却下し、凡庸な人物と見做されていた劉玄が更始帝として擁立されることとなった。 23年(更始元年)夏、更始帝討伐を計画した王莽は洛陽から100万と号する(戦闘兵42万、残りは輸送兵)軍を出発させた。しかし王莽は軍事の知識・経験に乏しく、政府軍に63派の兵法家を同行させる、猛獣を引き連れるなどの常識外れの編成を行った。政府軍は劉秀が拠点としていた昆陽城を包囲・攻撃した。劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出、近県3千の兵を集め、昆陽包囲軍と対決する。政府軍は総大将が数千を率いて迎撃したが、劉秀やその部下の奮闘により大敗を喫した(昆陽の戦い)。 昆陽の勝利に前後して劉縯も宛城を落城させている。これにより劉縯・劉秀兄弟の名声は高まり、その名声を恐れた更始帝は両者への牽制を始める。劉玄即位に反対していた劉縯の部下が、更始帝から官位が授けられた際に固辞したため、更始帝はこれを反逆として誅殺しようとした。この時、劉縯は部下を擁護したため、更始帝はこれを口実として劉縯をも殺害した。この事件に際し劉秀は宛城に到着すると、更始帝に兄の非礼を謝罪し、また周囲が劉縯の弔問に訪問しても事件については一切語らず、自ら災禍に巻き込まれるのを防いでいる。 昆陽・宛県での結果を知ってそれまで傍観していた地方の豪族が次々と更始軍に合流し、更始軍は短期間で一大勢力と成長した。更始帝軍は洛陽と長安(当時は常安)を陥落させ、更始帝は洛陽・長安(当時は常安)へ遷都する。洛陽が都城とされていた時まで、劉秀は更始帝と側近たちに昆陽での戦功と劉縯の弟であることから危険視され、中央から出ることが出来なかったが、河北へ派遣する適当な武将がおらず、大司徒劉賜が「諸家の子独り文叔有って用いるべし」と推挙したために赴任を命ぜられた。これによって劉秀への監視が解かれ、長安に遷都した更始帝の朝政が乱れ民心を失うことで、劉秀に自立の機会が与えられることとなった。
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