漢代の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/28 04:54 UTC 版)
漢代に儒学が隆盛したとき力をもっていたのは、先秦以来の師承(伝承)を持つ人々であった。そしてその人々の使用した経書は、暗誦によって継承されていた今文であった。彼等は自らの経書(今文)を用いて漢王朝(前漢)に仕え、積極的に儒学の奨励を推し進めた。儒学は文帝、景帝の時代を経て着実に社会的勢力を加えていった。こうしたものの最も重要な機転と考えられたのが、董仲舒の建言による武帝の五経博士設置であった。その後、新しく発見された古文経伝と文字や内容に異同があったので、経書解釈を巡って論争が起こった。 今文経伝を奉じる学問を今文学(きんぶんがく)あるいは今文経学(きんぶんけいがく)と言う。前漢末、劉歆が古文経伝を学官に立てようとしたが今文学者たちは激しく反対した。新朝の時、古文経伝が学官に立てられたが、後漢になって再び学官の地位を守り、後漢を通じて十四博士が立てられた。 しかし、その後、官学の世界から締め出された古文学者たちは民間において、それまでのように師承によらずとも、書かれている1字1字を検討する訓詁学にもとづいた経典解釈の方法論を確立させた。そこで重視されたのが今文と古文の字体の違いである。古い字であってこそその字源を探ることができるのであり、漢代に生まれた隷書では真に聖人たちが伝えようとしたことを解釈することはできないとした。その成果となるものが、漢字を篆書や古文で語源を探ろうとした許慎の『説文解字』である。また新末後漢初の混乱期、杜林という人物が西州において漆で書かれた古文尚書を得て、鄭玄など著名な古文学者たちがこの古文尚書に注釈を施したと言われている。 このように、在野で力をつけた古文学が隆盛するようになって、今文学は衰退し、永嘉の乱で多くの伝承が絶えた。こうして今文学の歴史は漢代とともに事実上消滅し、清代に至るまで学界の話題となることはなかった。 なお、このとき古文尚書などの書物も亡佚していたのであるが、乱が収束した後、新出の25篇を備えた58篇の古文尚書が梅賾によって奏上された。これは後にこの新出部分が偽書であることが証明されたので、偽古文尚書と呼ばれている。この尚書は古文らしさを出すために古文に擬した隷書体、いわゆる隷古定という書体で書き写された。
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