漢代以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 02:41 UTC 版)
漢の時代に「太学」は首都に所在する高等教育機関の正式名称となった。前漢の武帝が董仲舒の献策によって設置したのがはじめとされている。「太学」は儒教を正統学問とした。 前漢の時代の「太学」は長安(現在の西安市)に設けられ、後漢の時代には洛陽(現在の洛陽市)に設けられた。学生たちは地方から選抜され、試験に応じて官に任用された。後漢の時代に学生(弟子員)の数は3万人を越えたとされ、「清流派」(党錮の禁参照)の拠点として一大政治勢力となった。 西晋は洛陽に太学を設け、東晋は建康(現在の南京市)に太学を置いた。 西晋の咸寧2年(276年)、公卿・大夫の子弟(国子)の教育機関として、太学とは別に「国子学」が設けられた。国子学と太学の双方は国子祭酒が管掌した。
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