漢代以降
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前漢の武帝は元封5年(紀元前106年)に全国を13州(11州と、朔方と交阯の2郡)に分け、各州に刺史を設置した(漢代の地方制度を参照)。漢代の州は禹貢の九州のうち雍州・梁州がなく、かわりに涼州・益州・幽州・并州を加えて、後に司隸を直轄としたものである。その後も「九州」という言葉は具体的な9つの州ではなく、中国全土の雅称として使用されつづけた。 新羅でも第31代の神文王の687年には九州制を布いている。 唐に王維が阿倍仲麻呂を日本に見送るときに作った漢詩、『送秘書晁監還日本国』に「九州何処遠」という句がある。 日本でも保元の乱直後に出された保元新制(1156年)の第一条の冒頭に「九州之地者一人之有也」という一文が掲げられたが、これも中国の例にならって国土全体の雅称として用いられたもので、日本の国土全体は公領・私領(荘園)を問わず全て天皇(治天の君)の治める土地であるという意味である。
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漢代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 14:12 UTC 版)
前漢は郡国制を採用したが、中央直轄の郡県においては、秦の制度を踏襲した。紀元前148年に郡守を郡太守、郡尉を郡都尉と改称した。紀元前106年、武帝は全国を13州(11州と2郡)に分け、各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度に改まった。 魏晋南北朝時代を通じて、州・郡・県の数は増大しつづけ、南北朝末期には1州に1郡しかない地方も現れて、行政上の非効率も問題化してきた。 583年に隋が郡を廃止し、州・県2段階の地方制度に改められた(州県制)。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、郡県制が復活した。 618年に唐が隋を滅ぼすと、郡を州に改め、再び州県制が採用された。627年に全国が10道に分けられると、道・州・県3段階の地方制度となる。742年に州が郡に改められて、一時的に郡県が復活したが、758年に郡が州に改められて、郡は姿を消した。
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