漢代以降とは? わかりやすく解説

漢代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 04:42 UTC 版)

九州 (中国)」の記事における「漢代以降」の解説

前漢武帝元封5年紀元前106年)に全国13州11州と、朔方交阯の2郡)に分け各州刺史設置した漢代の地方制度参照)。漢代の州は禹貢九州のうち雍州梁州がなく、かわりに涼州益州幽州并州加えて、後に司隸直轄したものである。その後も「九州」という言葉具体的な9つの州ではなく中国全土雅称として使用されつづけた新羅でも第31代の神文王687年には九州制を布いている。 唐に王維阿倍仲麻呂日本に見送るときに作った漢詩、『送秘書晁監還日本国』に「九州何処遠」という句がある。 日本でも保元の乱直後出され保元新制1156年)の第一条冒頭に「九州地者一人之有也」という一文掲げられたが、これも中国の例にならって国土全体雅称として用いられたもので、日本の国土全体公領私領荘園)を問わず全て天皇治天の君)の治め土地であるという意味である。

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漢代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 14:12 UTC 版)

郡県制」の記事における「漢代以降」の解説

前漢郡国制採用したが、中央直轄の郡県においては、秦の制度踏襲した紀元前148年郡守を郡太守、郡尉を郡都尉と改称した紀元前106年武帝全国13州11州と2郡)に分け各州刺史設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度改まった魏晋南北朝時代通じて、州・郡・県の数は増大しつづけ、南北朝末期には1州に1郡しかない地方現れて、行政上の非効率問題化してきた。 583年に隋が郡を廃止し、州・県2段階の地方制度改められた(州県制)。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、郡県制復活した618年に唐が隋を滅ぼすと、郡を州に改め、再び州県制採用された。627年全国10道に分けられると、道・州・県3段階の地方制度となる。742年に州が郡に改められて、一時的に郡県が復活したが、758年に郡が州に改められて、郡は姿を消した

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