偽古文尚書
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古文尚書は失われてしまったが、東晋時代の元帝(在位317年 - 323年)の時に豫章内史の梅賾(ばいさく)という人物が、「古文尚書」を発見したとして朝廷に献上した。後に偽作であることが判明しているので、現在ではこの『書経』は「偽古文尚書」(ぎこぶんしょうしょ)と呼ばれる。 この本は「今文尚書」のうち「舜典」を除く28篇(篇を分けると33篇)と、新出の偽作部分である25篇からなるものであり、合計すると劉歆や桓譚のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致する。また、注釈として孔安国伝が付され、孔安国の大序と百篇書序が各篇頭につけられているが、これも梅賾による偽作であり、現在では「偽孔伝」と呼ばれる。なお、梅賾本のうち「今文尚書」と重なる28篇(「舜典」を除く)に関しては、漢代から引き継がれた系統のテキストであり、新たに偽作されたものではない。 梅賾本には「舜典」が存在しなかったため、魏の王粛注の「堯典」を二つに分け、後半の「慎徽五典」以下の部分が「舜典」として用いられた。「舜典」には孔伝が存在しないため、王粛注・范寧注が代わりに用いられた。その後、南朝の斉の姚方興がその闕を補う「孔安国伝古文舜典」を献上したが、この本には「慎徽五典」の手前に二十八字が加えられていた。 この梅賾本は、東晋で学官に立てられ、その後も南朝において継続して受容された。北朝では鄭玄注の『尚書』が用いられていたが、梅賾本に注釈をつけた梁の費甝(ひかん)の義疏が隋の劉炫によって受容されると、北朝においても広まった。このとき、劉炫は梅賾本と姚方興本を合わせた本を用い、このテキストが徐々に広がるようになった。唐の『尚書正義』(『五経正義』の一つ)がこの梅賾本と姚方興本を合わせた本を用いたことで、以後はこのテキストの『尚書』が一般的なものとなる。現在に伝わる『尚書』はこの系統のものである。 唐の玄宗の天宝3載(744年)、衛包が古文尚書の改訂を行い、字体は古文から開元文字に改められた。現代に伝わっている尚書は、このときの改訂を経たものである。
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