漢の武将として
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永鳳元年(308年)、劉聡の先鋒となって壷関を陥落させた。劉淵が皇帝を名乗ると平東大将軍となった。この頃に漢人の張賓が陣営に加わった。河瑞元年(309年)、劉淵から安東大将軍とされて開府した。鉅鹿・常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集め、張賓を謀主とし、十八騎の多くが軍の指揮官となった。その後、鎮東大将軍に進められ、合わせて汲郡公に封じようとしたが、郡公に関しては辞退した。当時、石勒は漢の臣下としての官爵を未だに受けていなかったが、劉淵はそれを咎めることが出来ない程の勢力を築き上げていた(ただし、晋との戦い中であることも考慮する必要がある)。 光興元年(310年)に劉淵が死去して劉聡(昭武帝)が即位すると并州刺史となり、汲郡公に封じられた。政変によって皇位に就いた劉聡にとってそれまで漢の官爵を受けなかった石勒が官爵を受けたことは大きな政治的成果であり、反対に石勒にとっても劉聡を支持する姿勢をみせることで漢との関係の安定化を図る意図があったと考えられている。嘉平元年(311年)、東海王司馬越の葬列を襲い、司馬越の子で鎮軍将軍の司馬毗ら西晋軍の主力を壊滅させ、孔萇の進言に従い、司馬毗を捕獲し太尉王衍など軍高官や王侯100人以上を含む10万人近くを殺害した。 同年、大将軍の苟晞を殺害し、さらに対立した王弥を殺してその部下を併せたが、江南地方への侵攻は失敗した。江南の攻略中には、劉琨が生き別れの母および、石勒の従子の石虎を送り届けて晋への帰順を促したが、石勒は丁重に応対したものの帰順は拒否した。嘉平2年(312年)、上党郡公に改められ、襄国に拠点を移した。嘉平4年(314年)、幽州の王浚を殺害するが、段匹磾が薊に入り以降は対立した。劉聡から驃騎大将軍・東単于とされた。嘉平5年(315年)には陝東伯を追加されるが、公や単于の地位はそのままであることから、(漢の)東方の覇者を意味する称号であったとみられる。麟嘉元年(316年)、拓跋部の協力を受けた劉琨を撃破し、晋の并州を降した。劉聡は停戦を言い渡したが、石勒は無視し、三国鼎立を念頭に露骨に自立を図った。もっとも、石勒の劉淵への服属そのものが初めから表面的なものに過ぎず、名目だけ漢の官爵を受けていた(当初はそれすら拒んでいた)自立勢力である石勒は晋と戦いながらも漢の勢力の及ばない東方へ更なる勢力拡大を行い、劉聡は王弥殺害などに対しても手を拱くしか無かったとする見解もある。 麟嘉3年(316年)7月、劉聡の病が重くなると、石勒を大将軍・録尚書事に任じて皇太子劉粲の補佐を命じるが、石勒はこれを固辞する。このため、補佐の件を取りやめて改めて大将軍に任じて10郡を与えるとする使者を派遣するが、石勒はこれも拒否した。程なく劉聡は病死する。
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