漢の武将としてとは? わかりやすく解説

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漢の武将として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 02:10 UTC 版)

石勒」の記事における「漢の武将として」の解説

永鳳元年308年)、劉聡先鋒となって壷関陥落させた。劉淵皇帝名乗る平東大将軍となったこの頃漢人張賓陣営加わった河瑞元年309年)、劉淵から安東大将軍とされて開府した。鉅鹿常山攻め君子営を作って漢人知識人集め張賓謀主とし、十八騎の多くが軍の指揮官となったその後、鎮東大将軍進められ合わせて汲郡公に封じようとしたが、郡公に関して辞退した当時石勒は漢の臣下としての官爵未だに受けていなかったが、劉淵はそれを咎めることが出来ない程の勢力築き上げていた(ただし、晋との戦い中であることも考慮する必要がある)。 光興元年310年)に劉淵死去して劉聡昭武帝)が即位する并州刺史となり、汲郡公に封じられた。政変によって皇位就いた劉聡にとってそれまで漢の官爵を受けなかった石勒官爵受けたことは大きな政治的成果であり、反対に石勒にとっても劉聡支持する姿勢をみせることで漢との関係の安定化を図る意図があったと考えられている。嘉平元年311年)、東海王司馬越葬列襲い司馬越の子鎮軍将軍司馬毗西晋軍の主力壊滅させ、孔萇進言従い司馬毗捕獲し太尉王衍など軍高官王侯100人以上を含む10万人近く殺害した同年大将軍苟晞殺害し、さらに対立した王弥殺してその部下併せたが、江南地方への侵攻失敗した江南攻略中には劉琨生き別れの母および、石勒従子石虎送り届けて晋への帰順促したが、石勒丁重に応対したものの帰順拒否した嘉平2年312年)、上党郡公に改められ襄国拠点移した嘉平4年314年)、幽州王浚殺害するが、段匹磾入り以降対立した劉聡から驃騎大将軍東単于とされた。嘉平5年315年)には陝東伯を追加されるが、公や単于地位そのままであることから、(漢の)東方覇者意味する称号であったとみられる麟嘉元年316年)、拓跋部協力受けた劉琨撃破し、晋の并州降した劉聡停戦言い渡したが、石勒無視し三国鼎立念頭に露骨に自立図った。もっとも、石勒劉淵への服属そのもの初めから表面的なものに過ぎず名目だけ漢の官爵受けていた(当初はそれすら拒んでいた)自立勢力である石勒は晋と戦いながらも漢の勢力及ばない東方更なる勢力拡大行い劉聡王弥殺害などに対して手を拱くしか無かったとする見解もある。 麟嘉3年316年7月劉聡の病が重くなると、石勒大将軍録尚書事任じて皇太子劉粲補佐命じるが、石勒はこれを固辞するこのため補佐の件を取りやめて改め大将軍任じて10郡を与えるとする使者派遣するが、石勒はこれも拒否した程なく劉聡病死する

※この「漢の武将として」の解説は、「石勒」の解説の一部です。
「漢の武将として」を含む「石勒」の記事については、「石勒」の概要を参照ください。

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