漢の函谷関とは? わかりやすく解説

漢の函谷関(新関)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:37 UTC 版)

函谷関」の記事における「漢の函谷関(新関)」の解説

前漢武帝元鼎3年紀元前114年)に、旧関の東100キロメートル黄河支流洛河上流部の畔(北緯3443分13.73秒 東経112度9分57.44秒 / 北緯34.7204806度 東経112.1659556度 / 34.7204806; 112.1659556、現在の河南省洛陽市新安県城関鎮)に新しく作られた。2層楼閣と、3重に張り巡らされた高さ66メートル城壁構成されていた。前漢時代国都長安を守る東の防壁であり、後漢時代国都洛陽を守る西の防壁洛陽八関のひとつ)となった函谷関の「移転」について、唐代8世紀)に記され『通典』は以下のような説話載せる漢の武帝仕えた楼船将軍楊僕宜陽県の人)は多く功績立てた人物であったが、「関外」の人であることを恥じ家財供出して関を東に移すことを請うた。これにより元鼎3年紀元前114年)、新安県に関が移されたという。 『通典』によれば曹魏正始元年240年)に弘農太守孟康建言によって新安函谷関(の関治)は廃止され移転した6世紀長安に都した北周が、北斉対峙するために前線基地設けた『通典』には、故函谷関改めて通洛防とした、とある)。 明・清期には関設けられた。1926年北洋軍閥北京政府内の武力衝突により損傷した際も、特別に資金出して修復された。 毛沢東時代1958年大躍進政策一環として、土法炉を使用した全人民大製鉄製鋼運動」が開始され河南省でも大規模に製鉄事業展開することになった新関楼閣は土法炉建設用の煉瓦採取するためにほとんどが解体され楼閣内に保管されていた石碑文献など多く歴史的資料失われた東関にある函谷関遺跡は、2008年より世界遺産登録目指し環境整備進められた。2012年から2013年にかけて発掘調査が行われ、城壁古道建築遺構確認された。 漢代函谷関は「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産登録されている。

※この「漢の函谷関(新関)」の解説は、「函谷関」の解説の一部です。
「漢の函谷関(新関)」を含む「函谷関」の記事については、「函谷関」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「漢の函谷関」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「漢の函谷関」の関連用語

1
8% |||||

漢の函谷関のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



漢の函谷関のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの函谷関 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS